窪田正孝が体現する、“屈折した”朝ドラ主人公 『エール』が突きつける理想と現実のギャップ

窪田正孝、“屈折した”主人公に

 NHK連続テレビ小説『エール』。このどうにも不器用すぎる人々の狂想曲。そもそも、これほど不器用で、かつて幼少期の鉄男(込江大牙)が言った言葉をそのまま借りれば「ずぐたれ」な朝ドラ主人公が今までいただろうか。明るく見せかけて、とてもとても屈折したドラマ『エール』の愛すべき男たちの姿を紐解いてみたい。

 窪田正孝演じる古山裕一。第8週は、早慶戦を盛り上げ、選手たちを鼓舞することになった、輝かしく力強い早稲田大学応援歌「紺碧の空」が誕生するまでが描かれた。しかし、順風満帆にことが進んだわけではない。作曲した当人である主人公・裕一は、自分の強みであり夢である西洋音楽に固執するあまり、自分の殻の中に閉じこもり、彼のためを思って動く純粋な人間をも、彼らのアイデンティティを揺るがすほどの発言によって無自覚に攻撃し、傷つけてしまう。

 今までの過程を見守っている視聴者の多くが、彼がそのことに気づく金曜日に至るまでずっと思っていただろう。「裕一、君はいつも誰かのために書いた音楽こそ評価されてきたではないか。誰かのことを思って書いた音楽がいつも素晴らしかったではないか」と。初回で萩原聖人演じる東京オリンピック会場の警備員が「先生の曲は人の心ば励まし応援してくれる」と言っていたように。御手洗(古川雄大)が「私みたいな辛い思いをしている人たちに力を与えられる曲を作って」と言い、演奏会後に尋常じゃなく涙していたように。ハーモニカ倶楽部の曲づくりにおいて、怒りに負けて本来の自分を取り戻せず曲が書けない時、史郎(大津尋葵)が、「今の君は君じゃない。君じゃないから書けないんじゃないか」と言っていたように。

 父親譲りの「騙されても恨み辛みを言わない」、人のことを暖かく見つめ、ユーモラスに音楽へと昇華する能力こそが、彼の本質であることは、既に多くの登場人物によって語られているのである。それでも気づけず、いつも依頼された仕事に対して悩み苦しみ、時に人に対して攻撃的になりながら、地を這うように、必死で書き上げる男。それがこの先、様々なジャンルの音楽を作り出していくことになる古山裕一の不器用な生き方を印象付けるものになるのだろう。

 しかし、不器用でややこしい、思うようには生きられない男は、『エール』において裕一だけではない。このドラマは、そういった理想と現実の間のギャップ、世間や家族から担わされる期待や、自分自身が抱く夢と、自分自身の能力の間のギャップに苦しむ男たちの物語でもある。

 仕方がなく家業を継いだが失敗ばかりで、息子から「お父さんの夢中になれるものは?」と問われても、さりげなく話を逸らすしかない裕一の父親・三郎。唐沢寿明が、実に見事にチャーミングに、不器用で情けない、愛すべき男の哀愁を演じていた。また、裕一たちの恩師・藤堂(森山直太郎)も、常に正しい道を指南するだけの存在ではなく、自分が追えなかった夢や得られなかった才能を彼らの中に見つけ、思いを託す存在として描かれている。

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