『キューブリックに魅せられた男』が映し出す、キューブリックとその作品に人生を捧げた男の生き様
自宅の棚にはスタンリー・キューブリック作品のDVDやBlu-rayのコレクターボックスやリマスター版のフィジカルソフトがいくつもある。DVDの時代は新しくリリースされるコレクターズボックスで収録作品が重なると、権利元のあざとい商売に舌打ちをしながら以前のボックスを売っ払ったりもしていたので、これまで何回買い直したかよく覚えていない。ちなみに自分は今も昔もほとんどコレクター気質はないのだが、キューブリックの作品に関してはできるだけ完全なかたちで揃えておきたい気持ちになってしまう。一つは、キューブリックが生涯貫いてきた一点の曇りもない完璧主義に敬意を表して。もう一つは、DVD、Blu-ray、4K ULTRA HDとメディアが進化するごとに確認する画質のリファレンスとして。その前提には、あのキューブリックの作品だから、そのクオリティにおいては抜かりはないはずという絶大な信頼があった。もちろん、昨年日本でもおこなわれた『2001年宇宙の旅』70mm版特別上映もチケット争奪戦に参加して駆けつけた。
本作『キューブリックに魅せられた男』を観るまで、その「絶大な信頼」を保つために、こんなにも激しく狂おしく一人の人間が人生そのものを「賭けている」ことを知らなかった。本作の主人公はレオン・ヴィターリ、現在71歳のイギリスの元俳優だ。ヴィターリは映画俳優としてキャリアを歩み始めたばかりの1973年、25歳の時に『バリー・リンドン』(1975年)のオーディションに合格。これまで一人の観客として「神」のように崇めていたキューブリックの現場を体験したのち、そのまま俳優としての自身のキャリアを放り出して、キューブリックその人を「神」とするキューブリック組に自ら望んで飛び込んでいった。
『バリー・リンドン』以降、キューブリックが監督したのは『シャイニング』(1980年)、『フルメタル・ジャケット』(1987年)、『アイズ ワイド シャット』(1999年)の3作品。本作では、それらの作品のこれまで明かされたことがなかった制作の裏話や、ヴィターリとそれぞれの作品の出演者たちとの交流がライアン・オニール(『バリー・リンドン』)やマシュー・モディーン(『フルメタル・ジャケット』)の本人取材を交えて語られていく。ちなみに、散々な言われようのジャック・ニコルソン(『シャイニング』)は残念ながら作品には出てこない。キューブリックに命じられたことは何から何まで「絶対」だったヴィターリも、当時のニコルソンだけには我慢ならなかったようだ。「All work and no play makes Jack a dull boy」ならぬ、「All work and no play except Jack」といったところか。
そうしたエピソードすべて、キューブリック・ファンとしてはたまらなく興味深いわけだが、ふと冷静になると、本作で描かれているのは典型的なブラック企業としてのキューブリック組であり、そこでいろんなものが麻痺し、疲弊していく労働者としてのヴィターリである(その構図は、併映される『キューブリックに愛された男』も同様だ)。しかし、なにしろ相手はキューブリックである。ヴィターリの体験はすべて「歴史上の人物と歴史を作っている」ということを意味している。それも、後から「歴史を作っていた」ことに気づくのではなく、リアルタイムで「歴史を作っている」ことを実感しながら生きてきたわけだ。ヴィターリがキューブリックの命令に疑問を挟むことは一瞬もないし、観客もまたその価値を知っている。コンプライアンス軽視の劣悪な労働環境は特に日本映画の現場において大きな問題であり、本作のような作品が映画関係者にとって免罪符を与える理由になってはならないと思うが、繰り返しになるがなにしろ相手はキューブリックだ。「天才ならなんでも許されるのか?」というのは一考に値する問題だが、もしあなたが職場のボスから無理難題を押し付けられたら「そいつはキューブリックなのか?」と自問してみてはどうだろう。