香取慎吾がボロボロになって、逃げ続けているーー『凪待ち』が描く「喪失と再生」

香取慎吾主演『凪待ち』が描く「喪失と再生」

郁男の苦悩に見る、平成の「喪失感」


 郁男は、恋人の亜弓(西田尚美)とその連れ子の美波(恒松祐里)と3人で暮らしている。「いつか一緒に」と約束した南の島の名前も思い出せない。愛しているけれど、大切にできない。自分のことも、周囲の人のことも。一生懸命になれる仕事も、人生で成し遂げたい何かも見つからない。いつからそうなってしまったのかさえ、思い出せない。それくらい長いこと、ちゃんと生きることから逃げてきた男だ。

 定職に就かずとも生きていける、結婚をせずとも暮らしていける。その自由度の高い社会は、ひとつの「幸せ」に縛られないいい世の中とも言える。だが、「これが幸せ」という画一的な価値観が喪失された先に、では「何が自分の幸せか」を見つけられない人々も少なくないように感じた。

 逃げることができるようにはなったが、逃げた先の道標は誰も示してくれない。一般的な「幸せ」の形を喪失しただけで、新たな「幸せ」が再生されていない。命は続けられるけれど、生きているとは実感できない毎日。特に、平成の時代は大災害に幾度となく見舞われ、その復興に苦戦していることも重なって見える。

 郁男も、東日本大震災の傷跡を抱えながら生きる街・石巻にやってくることになる。巨大な喪失の前に、郁男自身も再生していくような兆しが見えた。だが、過酷な試練は続く。闇を嗅ぎつけるかのように、暗い誘惑がつきまとう。

 選択のカードをめくるたびにズブズブと環境が悪化し、やがて取り返しのつかない悲劇へと繋がってしまうのだ。失意のどん底にいる郁男は気づけば、自ら進んで闇深い沼に足を踏み入れているようにも見えた。「俺はどうしようもないろくでなし」「俺は疫病神」「俺がいると悪いことが舞い込んでくる」。まるで言霊のように、その発言が現実の郁男に降りかかる。

 絶望を味わったことがある人なら、同じような心境に陥ったことがあるのではないか。同じ闇の中にいる人の言葉しか聞こえなくなってしまう八方塞がり感。視野はどんどん狭まり、冷静さを失い、自分を大事に思ってくれる人の手を振り払い、ここが自分の居場所だと言わんばかりに、苦しい環境から出るチャンスを拒んでしまう。どうせ変わらない、どうせ明日も同じことの繰り返し……そんなふうにどこか諦めてしまう感覚がとても“今っぽい“。郁男の弱さは、現代を生きる誰の中にもあるものなのだろう。

 人は、誰もが失敗し、迷い、打ちひしがれることがある。どんなにいい人であっても、どんなに実直に生きてきた人であっても、そしてどんなスーパースターであったとしても、不条理な人生の荒波が全てを飲み込んでしまう瞬間がある。その抗いきれない大波に見舞われたとき、どうすれば心の凪を待つことができるのか。

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