香取慎吾がボロボロになって、逃げ続けているーー『凪待ち』が描く「喪失と再生」
生きるとは、心の波風が立つことの連続だ。「こんな人だと思わなかった」と他者からの裏切りに怒り心頭したり、「どうして自分はこうなんだろう」と自分自身に裏切られて情けなくなったり、「なぜこんなことに」と自然の猛威を前にただ立ち尽くすしかなかったり……。もちろん「こんな発見があったなんて」という、いい意味での裏切りもある。良くも悪くも、私たちは裏切り、裏切られながら生きている。だからこそ、波風の立たない平穏な“凪”の瞬間が尊く感じるのだ。
香取慎吾主演の映画『凪待ち』が6月28日より全国公開した。この映画は、出だしから「みんなの慎吾ちゃん」というイメージをことごとく裏切ってくる。スクリーンに映し出された香取は、現実から目を背け、ギャンブルに、酒に、暴力に逃げ続けている男の顔をしている。私たちが知っている、あのキラッとした目の輝きも、キュッと上がった口角も、どこにも見当たらない。その裏切りは、心に小さなさざなみを立てながら、徐々に彼が新境地を切り拓いたのだという喜びの波となって押し寄せてくる。
ただ、そんな新しい風を感じながら、“国民的スター香取慎吾“という陽のイメージと、今回香取が演じた郁男の陰鬱としたイメージのギャップに「裏切られた」と思うのは、私たちが勝手にそう「期待していた」だけだったのではないか。
香取に対して「こうあってほしい」という幻想。その期待に応え続けてきた香取。だが、もしかしたら私たちが見えていなかった、または見ようとしなかっただけで、香取の中にもずっと郁男はいたのではないか。むしろ「どうしようもないヤツだ」と眺めながらも、私たちの中にも郁男はいるのではないか……そんな心の中に波風を立たせてくれる映画だ。