松江哲明の『ハクソー・リッジ』評:人間が一線を超える瞬間を捉えた“戦争映画”

松江哲明の『ハクソー・リッジ』評

 実在の人物であるデズモンド・ドスを主人公に据えた本作は、第2次世界大戦末期の沖縄戦を舞台としています。しかし、宣伝では沖縄が舞台ということを表に出さず、しかもダチョウ倶楽部さんが宣伝イベントに起用されていました。『靖国』や『不屈の男 アンブロークン』のように公開前から抗議されることに配慮したのだと思います。

 でも、本作の内容に対して、あの宣伝方法がふさわしかったとはどうしても思えません。一方で、そういった宣伝について議論が起こること自体が、皮肉にも宣伝に加担してしまうことになる。結果として、作品の名前が広がるのは狙い通りだと思うのですが、そこに虚しさも感じてしまいます。例えば、塚本晋也監督の『野火』や片渕須直監督の『この世界の片隅に』といった戦争映画は、絶対にこんな形での宣伝を許容しないはずです。外国映画の宣伝について、作り手の意図と反することを行っていないか、もう少し考えてほしいです。戦場をブラックユーモアで描いたベン・スティラー監督作『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』とは違うのですから。宣伝は作品そのものを誇張する必要がありますが、ダチョウ倶楽部さんと野呂佳代さんを起用して「過酷な訓練に挑戦」というのは本作の本質を伝えられているとは思えません。

 ただ、宣伝に対して苦言を呈したくなるのは、試写で観たときにとんでもない映画だと衝撃を受けたからでもあります。メル・ギブソンのことだから一筋縄じゃないかないとは覚悟していましたが、その想像を遥かに越えてきました。『パッション』や『アポカリプト』などの監督作は、出世作『マッドマックス』のように、物語を削ぎ落としてやりたいことだけをやる“直線”の映画でした。物語はそれぞれ「キリストが処刑される12時間だけ」「捕虜が捕まって戻るだけ」なんですが、その見せ方が凄まじいのです。僕にとっては体験映画でした。ところが、『ハクソー・リッジ』の前半部は、丁寧に“物語”が描かれている。ドスがドロシーに恋心を抱くシークエンスや、陸軍での上官や同僚とのやり取りなどは、クラシックなアメリカ映画を思わせるものです。高低差を生かした崖の描写は、戦場となる前田高地との対比にもなっていました。でも、ところどころに、メル・ギブソン特有の過剰さが盛り込まれていて、それが中盤以降の“異常さ”につながっていくのです。2部構成の戦争映画としてはスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』、ポール・ヴァーホーヴェンの『スターシップ・トゥルーパーズ』を思い出しました。厳しい訓練とそこで築いた絆を、一気にぶち壊してしまう戦場の無慈悲さを描く、あの構成です。

 前半の肝となる人物は、ヒューゴ・ウィーヴィング演じる主人公の父親です。彼も戦争に行って傷つき、戦場では英雄でも、帰還してきた家では壊れたアル中状態。そんなお父さんが息子のために軍人として再度立ち上がり、軍法会議からドスを救う。ここまでで、90分の映画を作れるほどの重厚さです。メル・ギブソンもプライベートで酷い時期がありましたが、父親の二面性はメル・ギブソン自身の投映と言えるのではないでしょうか。人間の弱さ、駄目な自分を知っているからこそ、映画の中でこうありたいという理想、ドスのような崇高な人間を描けるのかもしれません。

 映画監督が映画を作ることにはさまざま理由があると思いますが、メル・ギブソンにとっての映画作りは、自分自身のカウンセリングみたいなものなんだと感じます。ラース・フォン・トリアーの映画もそうですね。でも、そんなエネルギーが詰まった映画を観客として観るのは大歓迎です。監督作に関しては一本もハズレがないですから。そして、メル・ギブソンが喜び、興奮しながら撮っているのがありありと伝わってくるのです。

 丹念に物語が描かれた前半と打って変わり、後半の戦闘シーンはメル・ギブソンにしか撮れないような描写が炸裂しています。正直、彼は撮りながらエクスタシーを感じているんじゃないかと思ってしまうぐらい(笑)。至近距離で手榴弾が爆発して、人、燃えてますから。『トータル・リコール』にもあった、死んだ人間を盾にして敵陣に突っ込むシーンなど、戦場の極限状態が延々と描かれていきます。その過剰さがすごすぎて、本当に怖い状況になると笑うしかないというか、感覚が麻痺してくるんです。絶対に銃を持たず、衛生兵として仲間を助け続けるドス。人として尊いことをしているはずなのに、彼が狂人にしか見えないのが凄い。宣伝では”英雄”推しですが、僕にはそう映りませんでした。なぜなら、戦場という人と人が殺し合うことが当たり前の現場では、彼こそが常識はずれだから。人を救いたいと思うことが狂気に見えてしまうパラドックス。この戦闘シーンを観ていると、一体誰が正常なんだろうか、と考えてしまいました。

 ドスはひとり助けて満足するのではなく、「あとひとりだけ、あとひとりだけ……」と何人もの兵士を救っていく。もはや恍惚の表情で。自分の信念を貫き通すドスの姿に尊敬の念こそ抱いても、その姿に共感したり、感動する人は少ないのではないでしょうか。唖然としますよ、あの行動は。観ていてうんざりする、嫌な気持ちになる作品こそが、良い戦争映画だと僕は思っています。この映画を観て「私もアンドリュー・ガーフィールドのように人の命を助けたい」とはなかなか思えないですよね。「あんな場所、絶対に行きたくない」ですよ。戦争映画の多くは、先人に感謝しましょう、といった視点で終わるものも多いんですが、本作は違います。僕はこれまで戦争映画が避けてきた(または描けなかった)、人間が一線を越えた瞬間が映し出されていると思いました。彼は自分の信念しか考えていないのです。結果として”英雄”とされていますが、支えていたのは信仰です。実際、彼は父親同様、戦後、PTSDに苦しめられたそうです。当然でしょう、あんな地獄を経験したのですから。戦場の最後、まるで光に祝福され十字架に横たわってるように、カメラがドスの姿を捉えますが、あれこそメル・ギブソンの一番撮りたかったカットなのでしょう。その意味では戦争映画のふりをした宗教映画と言ってもいいかもしれません。

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