上戸彩は“崖っぷちのヒロイン”でこそ輝く 『昼顔』で見せた映画的な資質
上戸彩。連ドラの女優、という印象を持つひとも多いのではないだろうか。デビューして18年だが、映画出演は少ない。その稀少なキャリアの中でも、たとえば『あずみ』2作での身体能力の高さ、あるいは『テルマエ・ロマエ』2作でのキュートなグラマラスさ。スクリーンにおいてはビジュアル上のインパクトが結果的に優先されてしまっていたのかもしれない。だが、ほとんど語られることはないが、ウォシャウスキーの『スピード・レーサー』でクリスティーナ・リッチ扮するヒロインの声を吹き替えた際のボイスアクトに耳を傾けるなら、彼女が演じ手としてきわめて映画的な資質の持ち主であることがよくわかる。
のっぴきならない状況にある者が、それでも己の信念を貫くこと。男子として生きる女子中学生を好演した出世作『3年B組金八先生』を思い出すまでもなく、上戸彩の演じ手としての本領は、そもそもそのようなシチュエーションでこそ発揮される。映画『昼顔』ではこの女優ならではの、逆境の気概が存分に味わえる。それが映画では初めてのことと言ってもよいほどの強度で発揮されているのだ。
3年前に放映され、一大ブームを巻き起こしたドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』の続編にして完結編だが、ドラマ未見の方のほうが楽しめるかもしれない。なぜなら、映画はドラマとは大きく肌ざわりが異なり、きわめて硬質な物語として展開するからだ。
後半どんどん過酷な方向に舵が切られていったとは言え、ドラマには甘やかな部分があり、上戸扮するキャラクターにも悲劇のヒロインめいた様子があった。つまり、許されぬ恋に身を投じてはいるが、どこか被害者的だった。そうした逃げ場が映画には一切ない。
夫がいる女性と、妻がいる男性が恋に落ちた。ふたりは弁護士立ち会いの下、別れることになる。その後、女性は離婚。男性は結婚生活を再スタートさせた。それから3年。二度と逢わないと誓ったはずのふたりは再会。さらに後戻りのできない禁断の道を進んでいくことになる。
もはや、悲劇のヒロインではいられない。言ってみれば、崖っぷちのヒロインである。美しい悲恋ではなく、自身のエゴイズムに向き合うしかない。運命だの、必然だの、そんなファンタジーな妄想の中では生きることはできない。主人公がそんな状況に在るからこそ、女優、上戸彩も輝くことになる。
男の妻との対峙が、大きな見せ場となる。何度かかたちを変えて出現するこの対峙が、物語を揺るがす。男の妻を演じるのは、伊藤歩。彼女もドラマでは見せなかった凄味を見せる。かつて岩井俊二の秘蔵っ子として一世を風靡した伊藤は『リリィ・シュシュのすべて』で坊主頭を披露したが、そのある種ジェンダーを超えた姿を、『3年B組金八先生』でセクシャルマイノリティの苦難を体現した上戸に重ね合わせると、この対峙はより意義深いものになるだろう。
上戸は、伊藤に頭を下げながら、決して己の欲望は手離さない。じりじりと土俵際で踏ん張るそのありよう。持久力のある芝居が、主人公の業、その鉛のような重さを映し出す。さらには、伊藤の罵倒を睨み返すまなざしの図太さ。剃刀の鋭さではなく、鉈(ナタ)の力強さが、スクリーンをぎらつかせる。
その結果、本来擁護できないはずの主人公が、善も悪も乗り越えた領域で、生命というエナジーにおいて肯定されることになる。筋が通らない物事に筋を通そうとしている懸命さと形容するべきか。上戸彩の演技は、ほとんど理屈を超えて、ああ、彼女は生きている、とただ納得させる。それは、欲望の正当化ではなく、欲望の単一化。余計なものがまったくない。虚飾を剥ぎ取り、ただひたすらシンプルに魂が投げ出されているからこそ、観る者は感動するのだ。