宮台真司の『さざなみ』評:観客への最低足切り試験として機能する映画

宮台真司の『さざなみ』評

性愛の社交は女ではなく「女」に関連する

 でも、これは演出を見ていない解釈です。S・ランプリングの眼差に吸い込まれ、妻の視座に内在した観客は、夫の未練にではなく、夫の鈍感さに苛立ちます。鈍感さがこれほどでなく、夫が、不在の元恋人への未練と、共在する妻への共感の間で、引き裂かれていれば、問題なかった筈です。

 妻は何を怒っていたのか。ラカンの「女はいない」がヒントです。ミレールはこの命題を、ニーチェの《女は、その恋人が自分達にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男は、自分がその恋人にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる》(『曙光』)に即して理解します。

 ミレールはこうパラフレーズします。《女は、その恋人が「女」にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男は、自分がその「女」にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。ここでは男女とも「女」に向かっている。男にとって「女」は他者だが女にとっても「女」は他者だ》。

 ミレールは更に《女は男の対象となることを欲望する》とパラフレーズしますが、ややミスリーディングです。実際、男を1次的存在と見、女を2次的存在と見るジェンダーバイアスに満ちていると批判されて来ましたが、現実の関係性に於いてはむしろ女の優位性を記述する命題です。

 そのことを、以下では範型(paradigm)という鍵概念を使って説明します。女がよく言う台詞は「あなたは女というものを分かっていない」です。他方、男がよく言う台詞は「おまえは俺を分かっていない」です。男が「おまえ男というものを分かっていない」と発話することは現実には殆どない。

 なぜか。その理由を僕は長らく「女は理解を求め、男は承認を求める」という命題で語って来ました。雑駁に言えば、女は、まず「女というもの=範型」への理解を求め、それを予選通過ラインとして、次に「わたしへの理解」を求めます。対照的に、男はいきなり「俺への理解=承認」を求めます。

 言い換えれば、女は、範型への理解能力を、自分を理解しようとする男の資格として設定します。ここでいう[女/男]の差異は理念型なので、例えば[欧米/日本]という差異にもスライドできます。僕の著作では、範型への理解能力を予選通過資格とする枠組を、社交文化に即して語って来ました。

~~
 F1のモナコ・グランプリの予選前日(木曜日)にモナコ王室が主催するパーティが開かれます。日本国内ではしばしば「タキシードの着用が原則なのに、日本の記者がフィッシュマン・ジャケットを着用したまま参加するのはミットモナイ」と非難されます。

 しかし厳密には的外れです。例えばアップル・コンピュータの創業者スティーブン・ジョブズであればTシャツとジーパンで現れるかも知れません。それでもいいのです。なぜなら、皆の期待を熟知した上で「ワザと外す」ことも、社交術の正攻法だからです。

 パーティのルールを弁えた上で「ワザと外し」たことをプレゼンテーションできれば、私は自分がパーティに参加するだけの器量を持った存在であることを示し、パーティの参加者たちを受け入れる意思があることを示すことができるのです。

 社交術の伝統を欠いた日本人が、「相手の期待に合致しているか」というレベルと、「相手の期待に応える度量があるか(期待に合致した行為をなし「得る」か)というレベルを区別できないことは、日本人の「ナンパ下手」にも関係します。

 日本人は、直接に相手の期待に沿おう(喜ばせよう)として、期待に沿えない可能性に脅えます。しかし社交術の伝統は間接性がポイントです。服装や家具や調度をほめることで、相手を直接喜ばせるより、むしろ自分に相手を喜ばせる器量があることを示そうとします。

 度量や器量があるところを相手に示せれば、社交術としては成功です。その上で、相手が自分を受け入れるかどうかはもはや相手の問題だと委ねるのが、西欧流の誘惑(ナンパ)です。そうするこどで、相手がなびくかどうかに一喜一憂してビビる必要を、免除されるのです。

 これらの例に明らかですが、相手の予期を踏まえたとしても、私の行為は、本来偶発的です。同じく、私の予期を踏まえたとしても、相手の行為は、本来偶発的です。社交文化を持つ国ではこれらの偶発性に混乱したりしません。社会成員の注意が、行為でなく予期に集中するからです。

        (「二重の偶発性とは何か~M式社会学第10回」『経』2004年2月号)
~~

 社交術の観点から言えば、愛の告白には、素朴に相手を喜ばせて首を縦に振らせることに意味があるのではなく、自分には相手を喜ばせるゲームをする力があることを示すこと、その意味で「愛のゲームに対する参加資格」を自ら証(あかし)することに、意味があるわけです。

 別の言い方をすれば、社交の目的は、自分に対してYESと言わせることではなくーー私という個体を承認させることではなくーー、自分が「ひとかどの人物」という範型に属することを示す所にあります。自分にはゲームへの参加資格が備わっている事実を示せれば、社交は成功なのです。

 更に踏み込めば、12世紀以来の「愛の意味論」が示すように、本来、愛は不可能であり、一致も融合も不可能だという伝統的な意識も関連します。とはいえ、人は愛が可能である「かのように」振る舞うことならできます。「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」(ユング)からです。

 であるなら、「かのように」振る舞う能力が問われます。神秘現象が存在しない所に神秘体験をもたらす力量が事態を分けるのだと意識されます。相手の期待に応える力が存在することを示す営みとしての社交の伝統が欧州の宮廷社会に存在し続けたのは、そうした背景によるのです。

「生きること」から「演じること」へ

 ラカンは別の仕方でも[男の論理/女の論理]を記述し分けます。男の論理(自意識)は「全ての男はΦである」という全称命題との緊張関係に於いて立つ「Φでない男が存在する(それは私だ)」という存在命題の形式を持ちます。二つの命題はカントが言う「力学的アンチノミー」を構成します。

 これに対して、女の論理(自意識)は「全ての女がΦである訳ではない」という全称命題否定との緊張関係に於いて立つ「Φでない女は存在しない(それは私だ)」という存在命題否定の形式を持ちます。これら二つの命題はカントが言う「数学的アンチノミー」を構成しています。

 女の自意識「Φでない女は存在しない(それは私だ)」と男の自意識「Φでない男が存在する(それは私だ)」を比べると、女の自意識「Φでない女は存在しない(それは私だ)」は、二重否定の再帰性ゆえに、「全ての女はΦである」よりも抽象的な水準で全称性を受容しているということができます。

 これに対して男の自意識「Φでない男が存在する(それは私だ)」は、「全ての男がΦである訳ではない」に比べて、抽象度の低い水準で全称性を否定していることが分かります。女は抽象水準が高いから全称性を受容でき、男は抽象水準が低いので全称性を否定せざるを得ないとも言えます。

 先に述べた通り、ラカンによれば「女」les femmesは存在しても、女La femmeは存在しません。女は男に「あなたは女というものles femmesを分かってない」と怒りますが、男が女に「あなたは男というものles hommesを分かってない」と怒ることはない。皆さんも聞いたことがない筈です。

 ラカンは、女は自らを虚構化しつつ「女」に接近すると見ます。<完璧な女>の虚構が自分に先立ち存在し、それを通して眼差され続けるのが女です。女にとって<完璧な女>への接近が主体(経験的主観像)の十全さを示します。だから女は虚構「女」が自分であるとの自覚を早期に習得します。

 ロマンチックな=馬鹿な男は、虚構「女」の向こうに真実(女)があると信じます。でも女自身はそう思っていない。虚構「女」が自分だと早くから自覚します。だから虚構「女」の向こうに真実を探しても詮ない。できるのは、眼差される虚構「女」をフォローすることだけ。それでいいのです。

 またしても<なりすまし>の主題です。「それでいい」というのは、女にとっては「女」を生きることがーー「生きること」よりも「演じること=<なりすまし>」がーー辛うじて濃密な感情をもたらすからです。そのことを主題化したデビッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』もあるほどです。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる