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宮台真司の月刊映画時評 第5回(後編・後半)

宮台真司の『さざなみ』評:観客への最低足切り試験として機能する映画

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<性愛>と<社会>はもともと両立しない

 ギャスパー・ノエ監督『LOVE【3D】』を復習します。連載では<性愛>と<社会>は元々両立しがたいものとして構造化されてきた理由を語って来ました。我々の<社会>が、1万年弱前から言語プログラム(広義の法)によって操縦される定住社会として存在するようになった事が、理由です。

 本能instinctにはエネルギーとプログラムが備わりますが、ヒトの場合プログラムを欠いたエネルギーが欲動driveを構成します。生得的プログラムを欠く分、習得的プログラムが埋め合わせます。習得的プログラムは言語的に構成されます。言語的な主題化は地平に否定項目をプールします。

 従ってフロイトに従えば、<社会>を生きるべく言語プログラムを書き込まれることが外傷的であるだけでなく、<社会>を生きるべく言語プログラムに従うことが否定性のエネルギーを蓄積して無意識を構成します。そこで古い定住社会は定期的な祝祭の反復を通じて問題を馴致しました。

 祝祭は、男女の反転、強者弱者の反転、タブー・ノンタブーの反転などをモチーフとします。反転を通じ、言語が、血肉を覆い隱す不完全なカサブタに過ぎない事実を思い出し、カサブタが構成する定住社会を、カサブタの部分品に<なりすまして>生きるというわけです。

 注意すべきは祝祭が単なるガス抜きではなかったことです。ハレ・ケの交替に象徴される時間性を必須とする祝祭が、色街の設営に見られるように<祝祭の空間化>を施されることで、定住秩序にとって人畜無害な単なるカサブタとしてのガス抜きへと変化したのです。

 所有や婚姻を持ち込む定住社会や、本当の仲間を守るべく見ず知らずの輩を仲間と見做す空想を不可欠とする、書記言語が支える大規模定住社会が、<なりすまし>によって辛うじて可能になる特殊な集住スタイルに過ぎない事実を想起させ、神経症的強迫を退けるのです。

 でも定住以降も、キリスト教圏に於ける恋愛史に於いてすら、19世紀半ばまではモノガミーが婚姻にしか適用されなかった事実が象徴するように、<贈与>や<剥奪>の過剰からなる<性愛>が、<交換>バランスが支える<社会>を、<なりすまし>だと意識させました。

 現にフランス革命期に活躍してフランス性愛文学の起点となったマルキ・ド・サドは、<社会>にノーマリティを、<性愛>にアブノーマリティを配当する去勢された通念を反転し、アブノーマルな<性愛>にノーマリティを、<社会>にアブノーマリティを配当しました。

 『LOVE【3D】』では、複数プレイを所詮は人畜無害なガス抜き=オージー(乱交)としてしか生きられない男主人公が、複数プレイを<社会>に於ける<なりすまし>を再確認するための「本来的なもの」の呼び戻しとしてスワッピングを生きる女から、見放されるというモチーフを描き出します。

 これが<社会>の不可能性ならぬ<性愛>の不可能性を示す説話論になっているのは、映画が提示する性別非対称性ーー所詮オージーに留まる男/スワッピングに開かれた女ーーが、性的退却が急速に進みつつある今日、コミュニケーションの不可能性を支える恒常的な要因であるからです。

享楽ならぬ快楽に留まる人畜無害な男達

 更に遡っておさらいすれば、「社会の完成や愛の成就が本来可能なのに、悪や不条理が妨げている」とする<可能性の説話論>に、「社会の完成や愛の成就が本来不可能なのに、何かが働いて完成や成就を夢想する」とする<不可能性の説話論>を対比させた上で、後者に軍配を挙げて来ました。

 [所詮オージーに留まる男/スワッピングに開かれた女]という対比が、「本来は反省が可能なのだから反省せよ」と男に説教を埀れるものに過ぎないなら、この対比は<不可能性の説話論>よりむしろ<可能性の説話論>に属することになるはずです。しかし実際のところどうなのでしょう。

 2年前まで1年間余り試みてきた性愛ワークショップでは、「<フェチ系>から<ダイヴ系>へ」というスローガンを掲げて、事実上「所詮オージーに留まる存在」から「スワッピングに開かれた存在」への陶冶を呼び掛けてきましたが(実際に複数プレイをするか否かは無関係)、僕は諦めました。

 各所で書いてきた通り、「性愛で深い変性意識状態に入れない理由について、自分のどこに問題があるのかよく分かったが、宮台さんが推奨する“ダイヴしてアメーバになる”実践は僕には無理だから、性愛は適当でいい」と答える「享楽ならぬ快楽に留まる男」が大半だと分かったからです。

 そう答える割合は明白に性別非対称で、男が大半です。非対称の理由が明白に構造的なもので、かつ構造(ないし構造化の趨勢)が変更不能なものであるなら、説教を埀れても実りません。むしろそうした非対称性が乗り越え可能だと思えた「短い時代」を支えた特殊条件を考察すべきです。

 非対称の理由が明白に構造的なものである可能性を示唆する作品が、アンドリュー・ヘイ監督『さざなみ』(2016)。老夫婦の関係崩壊を描いた、御自身がゲイだとカミングアウトしておられる監督によるこの作品は、残念乍ら多くの誤解に晒されています。確かに誤解され易い物語です。

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 イギリスはノーフォークの田舎に暮らす結婚45周年の祝賀を迎えようとする夫婦(妻役シャーロット・ランプリング、夫役トム・コートネイ)がいる。ところが、結婚前の夫と旅行中、アルプスでクレパスに落ちた夫の元恋人が、氷河内に氷漬けの姿で発見されたとの報せがやってくる。

 夫は、表面上は微かに過ぎない動揺を見せ、遺体をスイスに引き取りに行くと主張する。動揺も微かに見えるので妻も当初は「結婚前のこと…」と軽くいなす。だが程なく、屋根裏に隠してあった元恋人との写真を夜な夜な眺める夫の姿を見、「夫の動揺が尋常でないらしいこと」に気付く。

 かくて妻の疑念が膨らむ。自分は所詮、元恋人の埋め合わせに過ぎなくはないか? 夫婦の好みを擦り合わせて来たはずの家具や調度も、実は元恋人の好みではないか? 記憶を含めた夫の全ての振舞いや邸宅の歴史に、不在なはずの元恋人の影が刻印されている、と感じられるようになる。

 夫は、妻の疑念を悟らない。やがて、夫が屋根裏で見ていたスライドに映る元恋人が妊娠しているのを見、妻の気持ちが終る。アルプスの報せから1週間、45周年パーティが開かれた。型通りの祝福スピーチに返礼スピーチ。「烟が目にしみる」の歌が流れる(歌詞が全ての終りを告げる)。
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