『べらぼう』は蔦重が森下佳子に書かせた“令和の黄表紙” 次の100年後にも残る愛の最終回

『べらぼう』次の100年後にも残る愛の最終回

 “これぞ、大衆娯楽!”と膝を打ちたくなる幕引きだった。そして、改めて思った。このNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』は、時空を超えて蔦屋重三郎が森下佳子に書かせた“令和の黄表紙”だったのだと。

 天災への不安は増す一方。庶民の暮らしは米の価格高騰で苦しくなり、その鬱憤の矛先は「正義の制裁」とも呼ばれるSNSの叩き合いへと向かう。きっと社会は清く正しくなっているのだろう。だが同時に、かつては笑って許されていたものが次々と不謹慎と見なされていくような寂しさも感じさせる。

 そんな現代を生きる私たちを見かねた蔦重が、「ここは、思いっきりたわけてみちゃぁいかがですか? 役者や作り手の才能を贅沢につかって、お決まりごとにとらわれず、初めて観る素人も笑えて、歴史が好きな玄人も“そう来たか”と思わず唸る。そんな誰も観たことのねぇような大河ドラマを。そして、とびきりめでてぇ正月を呼びこむんでさぁ!」と、夢枕に立ってくれたのではないか。そんな想像さえ広がるような実に粋な作品だった。

語り継がれる“物語”は、生きづらい世を生きる人の心を鼓舞する知恵

 ラスボス・一橋治済(生田斗真)と斎藤十郎兵衛(生田斗真・二役)を入れ替えるという、蔦重(横浜流星)がプロデュースした仇討ちは無事成功。治済が阿波の孤島へと送られて終わりかと思いきや、そんな生ぬるい罰では終わらないのが“鬼”才・森下脚本の真骨頂である。

 治済は「用を足す」という名目で警備が手薄になる瞬間をつき、刀を奪って護衛を斬り殺して逃走。たしかに、ただの幽閉で大人しくするような男ではない。ここまでの生への執着こそが治済だと納得させられた次の瞬間、振りかざした刃に稲妻が落ちる。まさしく天誅。その屍の傍らには、平賀源内(安田顕)を思わせる変わった髷の男が立っていたとかいないとか……。

 悪いことをすれば、どれだけ位が高い人でも罰がくだる。たとえ、罪に問われたなかったとしてもお天道様が見ている。まるで、小さい頃に読み聞かせられた昔話のような顛末だ。それは、私たちが生きていくために欠かせない願いでもある。

 史実の治済は、暗躍の噂が絶えなかったものの、将軍の父として権力を握りながら77歳まで生きたと言われている。現実の世界では弱き者が強き者に一矢報いるなんてことは、なかなかない。世の中は理不尽で、不平等。だからこそ、腐らずに、ひたむきに、その心を奮い立たせるための物語が庶民には必要なのだ。

 たとえ生きている間に報われなくとも、亡くなった人の思いはこの世に残り続ける。そのために、語り継がれていく物語がある。その物語こそ、人々が生きづらい世を生きる上でそれぞれの道を見つけていくための知恵。直接的な“血”のつながりがなくとも、間接的な“知”でつながっている。それが、蔦重の目指した、“書をもって耕された国”ということなのだと結びつく瞬間でもあった。

 その知恵は、この国が生まれたころから続いているとも言える。最終回で登場した本居宣長(北村一輝)は、日本神話を含む歴史書『古事記』を研究した国学者。彼に執筆を依頼するにあたり、蔦重が口説いたときのセリフに思わず「なるほど」と頷かずにはいられなかった。「この国はアメノウズメの艶めかしい踊り見たさに、うっかり岩戸から顔を出しちまった、すけべでおっちょこちょいで祭りが大好きな神様が照らす国」であること。そして「神様の起こすいちいちを俺らのご先祖は受け止めた。“もののあわれ”というとびきりでけぇ器で」と、心が動くことこそ、人が人として生きていることそのものだと。もちろん、本居から「“すけべでおっちょこちょい”は言い過ぎや」というツッコミは入るのだけれど。

 アメノウズメとは、日本神話に登場する舞踊の女神である。天照大神が天の岩戸に隠れてしまい、世界から日の光が失われたときのこと。知恵の神様・オモイカネが、岩戸の前で八百万の神々が宴会をし、アマノウズメが踊ることで、天照大神を誘い出そうと提案したのだ。桶を並べて踏み鳴らし、胸をあらわにしながら踊り、高天原が轟くほど神々を笑わせたというアメノウズメ。その賑やかさが気になって、天照大神がつい岩戸を開いてしまうという物語だ。

ともすれば不謹慎として叩かれる笑い、だからこそ時代を映す鏡となる

 こうして振り返ると、なんとも人間味の溢れる逸話。それくらい「欲」と「笑い」、そして世界を照らす「光」は切り離せないということなのだろう。娯楽好きなのは、この国のアイデンティティなのかもしれない。そう記しながら、思わずふんどし一丁で放屁芸を披露して爆笑をさらった恋川春町(岡山天音)のことを思い出した。人の心の戸もそうだった。たわけたことを笑い合うときに、グッと距離を近づける。

 しかし、今の世の中で「半裸状態で踊る女性を見ながら人々が大笑いした宴会があった」なんて情報がネットに上がれば炎上不可避だろうし、「ふんどし一丁で屁をひねり出す芸」でテレビに出れば視聴者から厳しい声が届くに違いない。そんな時代の流れがダイレクトに反映されるのが笑いなのだと、蔦重の一生を見届けながらも痛感した。だからこそ、この令和の大河ドラマで、蔦重の死の間際に笑いを仕込んだ勇気に拍手を送りたくなった。

 「一つだけなんでも知りたいことにお答えします」という九郎助稲荷(綾瀬はるか)に、つい「本当ですか?」と聞いてしまい、せっかくのチャンスを無駄に終わらせてしまうトンチ話のような展開も。「今日の昼九つ、午の刻に迎えに参ります」と予言されたことを受けて、おなじみの面々に知らせるも「誰も来ねぇな」と肩透かしをくらうコントのような場面も。妻のてい(橋本愛)から、散々病気をネタに商売してきたために「もう死ぬとは思われておらぬのかもしれませんね」と大真面目にツッコまれてしまう夫婦漫才のようなやりとりも。

 そして、いよいよ牛の刻。「みなさま。まこと、ありがた山の寒がら……す」と、まぶたを閉じた蔦重を見て、大田南畝(桐谷健太)がオモイカネのごとく「呼び戻すぞ、蔦重。俺たちは屁だ、あ、そーれ!」と集まった一同に屁踊りを促す。そのまま涙の別れで幕が閉じるのかと思いきや、蔦重がうるさそうに目を開け「(九郎助稲荷が話した臨終の合図)拍子木が聞こえねぇんだけど」と呟いて終わるエンディングも、すべてが愛しく笑わずにはいられなかった。

 同時に令和の笑いには、愛が欠かせないのだと実感した。愛がなければ笑えない。逆を言えば、事情を知らない人からすれば「こんなときに不謹慎だ」と叩かれそうな場面でも、そこに愛を感じるメンバーが集えば笑うことが許される。あの松平定信(井上祐貴)をこんなに微笑ましく思えたのもそう。背景まで知り合った人同士で生まれる愛ある笑いこそ「あはれなりけり」と、心を動かす時代の空気を感じた。

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