水曜深夜に出現した“心のオアシス”ーー『おかしの家』の面白さと中毒性に迫る

 このドラマは毎回、太郎のこんな独白からスタートする。「この駄菓子屋はいずれ確実に潰れる。売り上げは月に4万円程度。諸々の経費を引いた純利益は……恥ずかしくて言えない。でも、この駄菓子屋が、ただ無意味で無駄なものとは、どうしても思えない」。彼は、自らを取り巻くシビアな「現実」を、十分に理解している。そして、その「現実」に対して、彼なりのやり方で抗おうとしているのだ。しかし、そのやり方は、具体的にはまだ分からない。太郎は、自分の周囲にいる人間たちとの交流を通じて、さまざまことに思いをめぐらせながら、自分にとって「本当に大切なこと」を見つけ出してゆく。それは恐らく、他の登場人物たちにとっても同じことなのだろう。

 そこで、ひとつ大きなテーマとなっているのは、「おとな/こども」の問題である。人は何をもって「おとな」になるのか。「こども」時代とは、本当に楽しいだけの時代だったのか。そして、そのふたつを繋ぐものとは、果たして何なのか。このドラマが、再会した小学校時代の同級生たちが、いたずらに過去を懐かしむような、いわゆる「ノスタルジーもの」ではないのは、この点からも明らかだろう。そして、毎回それらのことに思いをめぐらせながら、このドラマはある曲とともに静かに終了する。RCサクセションの知られざる名曲「空がまた暗くなる」だ。「テーマソング」とは言い得て妙。実は、この曲こそが、本作のテーマを何よりも雄弁に語っているのだった。〈おとなだろ 勇気を出せよ〉、〈おとなだろ 知ってるはずさ〉……今は亡き忌野清志郎が、あの独特な歌声で、聴く者を諭すように、励ますように歌い上げるこの曲のメッセージは、ある意味とても明快だ。〈Yeah 勇気をだせよ〉。

 「こども/おとな」。言葉にするのは簡単だけど、「こども時代」にだって痛みはあったし、もちろんいろいろ厳しいけれど、「おとな」だって何も悪いことばかりじゃない。それぞれの登場人物たちが、自らの過去に、夢に、痛みに改めて向き合いながら、「本当に大切なもの」とは何なのかに思いをめぐらせ、それぞれの「現実」と折り合いをつけてゆく物語。それが『おかしの家』なのだ。監督・石井裕也が、脚本・演出にも名を連ねていることをはじめ、陽光差し込む温かな画面設計、細やかなカット割り、ていねいに作られた「さくらや」の美術、要所要所で効果的に響く音楽、そして何よりもオダギリジョーをはじめとする役者たちのアンサンブルなど、このドラマで注目すべき点は数多い。もちろん、「さくらや」の存続、太郎と礼子の恋の行方など、連続ドラマとしての面白さだって一応ある。しかし、基本は一話完結の物語。というか、本作の最大の魅力は、『おかしの家』という作品世界に没入しながら、登場人物たちともども、観る者がそれぞれに思いをめぐらせることができる点にあるのだ。

 ウィークデイのど真ん中、水曜日の深夜に立ち現れる、「心のオアシス」としての『おかしの家』。劇中の台詞にもあるように、それは見ようによっては、ある意味「ぬるま湯」なのかもしれない。しかし、熱くも冷たくない「ぬるま湯」だからこそ、冷静に考えられる「思い」だって、きっとあるはずなのだ。けっして派手さはないけれど、昨今のドラマ界にあって、逆説的にエッジィな試みを行っているようにも思える『おかしの家』……やはり、これを見逃す手は、どう考えてもないだろう。

(文=麦倉正樹)

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