杉江松恋の新鋭作家ハンティング 芥川賞候補で注目、向坂くじら『いなくなくならなくならないで』の緊張感

 私は向坂くじら『いなくなくならなくならないで』(河出書房新社)の緊張感を愛する。

 人の心は綺麗に成型されておらず、へこんでいる部分があるかとおもえば過剰に突出した箇所があったりもする。いつも同じではなくて、時と場合によって変容もする。対象に接するありようもまた変わる。同じものを相手にしながら、あるときは愛で、またあるときには蛇蝎のように嫌う。

 当の本人でさえ自分の心がどのような形をしているかは知る由がない。そうしたものの動きを文字として写し取り、ある心がどのような軌跡を辿ってどこに行き着くかを書くのが、小説における人間描写というものだ。計画した通りには動いてくれず、しかも不定形であるものを描くのだから困難を伴う。難しいからこそそれを読みたいのだ。『いなくなくならなくならないで』を読み始めてすぐ、あ、これは好きな小説だ、と思った。第171回芥川賞候補作である。

 前半と後半で情景は分かれる。視点人物の時子には、かつて朝日という親友がいた。二人でノートを買って、手書きの交換日記をしていた。「朝日」と「時子」には両方「日」という文字が入っているので、表紙には「日」とだけ書かれている。

 高校二年生の冬休み明けから、朝日は学校へ来なくなった。他のみんなは朝日が不登校になったと思っていたが、時子だけは違うとわかっていた。朝日の母親から、大晦日に娘が自殺したというメールが届いていたからだ。学校ではしばらく噂話が飛び交っていたが、やがてみんな朝日を忘れた。大学に進学した時子の頭の中からも消えた。その別れから四年半が経ち、時子が就職を決めて準備を始めていたある日、携帯電話に非通知の着信があったのである。かけてきたのは朝日だった。

 それから朝日は時子の部屋に転がり込んでくる。他に行く場所がないようなのだ。四年間何をしていたかも言わない。そもそも死んだはずなのに。ここのところはなかなか明らかにされない。死んだというのは本当なのか。だとしたら朝日の部屋に居候してバーバパパのようなビーズクッションを図々しくネットで購入したのは誰なのか。そのことを宙吊りにしたままで話は進行していく。

 高校生の朝日は、突然自殺してしまったと言われても納得するようなことをしていた。家族との間に問題があり、毎日死にたい死にたいと言い続けていたからだ。時子はそんな友人に合わせてやはり死にたい死にたいと「日」のノートにも書いていた。時子にとって朝日は、唯一の自分を照らしてくれる光だったからだ。

——だれかと似ていたいし、それでいて異なってもいたい。そしてその凹凸がぴったりとあうただひとりを見つけて、さらにはその人にも、あなたこそただひとりであると言ってもらいたい。ふたりは肩がふれあうたび、だれもが持つそんな欲求を、少なくとも満たしあっていた。

 その朝日が帰ってきたのだ。かけがえのない朝日が、嬉しくないはずがないではないか。もちろん嬉しい。二人で行った銭湯で朝日は「わたしがいるせいで、いちばん困ってるのはわたしじゃん。だからいなかってあげたかった。けどいるね。いるねえ」と自分をなじる言葉を並べ始める。それを遮るために時子は「朝日。わたしもいるよ。いるからね」と言うのだった。朝日の居場所を、そうやって時子が作ってやる。

 これで終われば美しい物語だ。朝日が生きているのかいないのか、という問題はあるものの、それは措いておける。かけがえのない二人がまた揃った、めでたしめでたしのはずだ。

 でも、そうはならない。

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