ツンデレの文学史――シェイクスピア、格調高い文学ではない残虐描写と下ネタ多数の大衆作品から考察
■シェイクスピアとツンデレ
「物語の原型は聖書とシェイクスピア」で出尽くしているという格言がある。では、聖書と文豪ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)にツンデレは見られるのだろうか? 筆者は学生時代に必修科目として聖書の内容を学んだが、旧約聖書にも新約聖書にもツンデレを見出すことは流石に難しい。だが、シェイクスピアならばそれに近いものを見出すことができる。
シェイクスピアは格調高い文学史上有数の大天才である……おそらく多くの読者諸氏ははそんな漠然としたイメージを抱いていることだろう。それは半分正解で半分不正解である。シェイクスピアは格調高い文学としての要素もあるが、演劇という大衆文化の側面も持っているからだ。
そのため、大衆受けを狙った要素が含まれている。シェイクスピアの大衆性という側面を考えるうえで無視できないのが残虐描写と下ネタである。残虐な物を好むのは残念ながら人類の性である。スプラッター映画やゴア描写満載のテレビゲームを現代人が好むように、中世(シェイクスピアは正確にはルネサンス人だが)人は死刑の執行を見世物として楽しんでいた。(娯楽の乏しい時代であったことは弁明しておこう)
恋愛劇の『ロミオとジュリエット』にすらバイオレンス描写があり、『タイタス・アンドロニカス』に至っては登場人物の大半が死ぬ。下ネタは万国いつの時代も共通の鉄板ネタである。ので、大衆文化としての側面を持つシェイクスピア劇には下ネタも非常に多い。
時代の変化と言葉の壁のせいで、日本語を話者とし、500年以上の時の隔たりがある我々にはニュアンスが伝わりにくいが、代表的なところだと『ハムレット』の有名なセリフ「尼寺に行け」の「尼寺」は売春宿の隠語で、「魚屋」は「売春を斡旋する男」の隠語である。それ以外にも格調高い悲劇というイメージのあるハムレットには大量に卑猥な単語が登場する。
抒情的な恋愛悲劇『ロミオとジュリエット』も実は下ネタだらけである。実はシェイクスピアの戯曲は下世話な要素を多分に含んでいるのである。そんなシェイクスピア作品を心を無にし、虚心坦懐してみてみると、そこには現代に通じる「萌え」があることに気づく。
『から騒ぎ』(1598)は『十二夜』や『じゃじゃ馬ならし』と並ぶシェイクスピア喜劇の大傑作だが、この戯曲には現代にも通じる「萌え」が確実に存在する。この作品にはベネディックとベアトリス、クローディオとヒーローという二組のカップルが登場するが、ベネディックとベアトリスは開幕当初、顔を合わせれば喧嘩している。もう、勘の良い方はお気づきと思うが、最後にこの二人は相思相愛になり、デレデレの間柄になる。
前回の記事で書いた、スクリューボール・コメディと同じテンプレ的な展開である。
ツンデレの文学史――「スクリューボール・コメディ」との相似性、長い歴史を振り返る
■【ツンデレ つん‐でれ】 女性の性格や行動の傾向の一つ。普段はつんつんと無愛想な女性が、特定の男性と二人きりになると、で…
シェイクスピア劇は大量の映画化作品が存在するが、ケネス・ブラナー監督・主演の映画版(1993)は、最初のツンツン具合と、最後のデレデレ具合がとても楽しく表現されており、シェイクスピアに興味があるけどとっつき辛いと思っている方には、まずこれを自信をもって筆者はお勧めする。
ベネディックとベアトリスのカップルを演じたブラナーとエマ・トンプソンは当時夫婦(のちに離婚)で、丁々発止のやり取りが微笑ましい。同作を観ると、当時はまだ「ツンデレ」という言葉がなかっただけで、『から騒ぎ』のベアトリスはかなりツンデレ度が高いと言えそうである。
確証をもって「最古」とまで断言はできないが、『から騒ぎ』は「ツンデレの古典、または原型のうちの一つ」とは言えそうである。付け加えると、同じく英文学の古典であるジェーン・オースティンの代表作『高慢と偏見』のヒロイン、エリザベス・ベネットもかなりツンデレ度が高い。発表は19世紀の初頭(1813年)なので、シェイクスピアに比べると新しいが現代の基準からみれば間違いなく「古典」だ。
同作は何度も映像化されているがジョー・ライト監督の映画『プライドと偏見』(2005)でキーラ・ナイトレーが演じたエリザベスはかなりツンデレである。(今は無き映画雑誌「この映画がすごい!」は同作を「ツンデレ映画」と評していた)
ついでに述べると同じくシェイクスピアの代表作である『じゃじゃ馬慣らし』のカタリーナは暴力的だがおしとやかに変身する。
忠実に「オラニャン」の定義には当てはまらないだろうが、カタリーナはオラニャンっぽい。さすがシェイクスピア、時代の先を読んでいる。
※ただし『じゃじゃ馬ならし』はフェミニズム意識の強い方にはあまりおすすめしない、と注意しておく。