『花椿』元編集者・林央子インタビュー「90年代は時代の空気感としてDIY精神があった」
「わたしと『花椿』」(DU BOOKS)を出版した編集者の林央子(なかこ)氏。1988年に資生堂に入社してから2001年に退社するまで、企業文化誌『花椿』の編集者として、ソフィア・コッポラやマイク・ミルズ、ホンマタカシら国内外のクリエーターと、さまざまな企画で読者を魅了した。
フリーランスの編集者として独立してからは、執筆活動や個人雑誌『here and there』の出版、展覧会の監修など多岐にわたる活動を続けている。『花椿』とともにあった90年代を改めて振り返り、編集という仕事や表現について林氏が今思うことを語ってもらった。(イワモトエミ)
「90年代」の雑誌づくりを振り返る
――「わたしと『花椿』」(DU BOOKS)は、「Web花椿」での連載をもとに出来上がった一冊です。どういう経緯で本になったのですか。
資生堂の元同期が『花椿』の編集長となり「何か一緒にできたらいいね」という話になって、退職後に初めて『花椿』にライターとして関わることになりました。何回か紙媒体のほうで他の人が立てた企画でライターとして参加したのですが、私はあまり器用ではないので、ちょっと難しかったんですね。資生堂を退職してフリーになってからは、自分のアイデアで企画を立てて書くことがほとんどで。そのことを率直に伝えたら「自由度の高いWebで、90年代の『花椿』について央ちゃんらしく書いてほしい」と言われて。そのときに以前からDU BOOKSの編集者の方に「林さんが書く90年代のことを読んでみたい」と言われていたことを思い出したんです。仕事や大学院での研究をしながら腰を据えて本を一冊書き上げることにはなかなか取り組めずにいたのですが、連載のリズムで書いていけばいつか本にもできるなと思いました。
――新卒で『花椿』編集室に配属されましたが、もともと希望されていたんですか。
はい。でも、実は『花椿』のことは全く知らなかったんです。就活の際、雑誌を作る仕事をしたいとは思っていたものの、いわゆるマーケティングで作る雑誌ではないものを作りたいと考えていました。とはいえ、どこでそういう雑誌を作ることができるのかはわからず、とにかくいろんな人に会っていたら、『花椿』の当時の編集長・平山景子さんを紹介してもらう機会に恵まれて。もともと資生堂は好きで入社試験を受けていたのですが、ちょうど面接前にお話することができました。一問一答のような形で話をするなかで『花椿』を見せてもらったら、アートディレクターの仲條正義さんのレイアウトが独特で余白の使い方もとても新鮮だったんですよね。平山さんから励ましの言葉もいただいて、『花椿』への配属を希望していることを面接で伝えました。
――マーケティングで作る雑誌ではない雑誌を作りたいと思われたのは、なぜでしょう?
はっきりとした理由はよくわからないんです。でも、高校まで茨城県の学校に通って東京には大学から来たので、疎外感をすごく感じていたことが影響したようにも思えます。英語がそんなに堪能じゃないのに帰国子女が多い大学に入ってしまったこともあって、同級生たちに圧倒されていました。就活では同級生たちが外資系企業を目指すなかで、自分は彼らとは違うなという思いもあり、雑誌に興味があったのでマスコミを志望しました。それでマスコミセミナーなどに行くんですけど、そこで聞く話にあまり興味が持てなかった。多分、そういう場で大好きな雑誌が実はマーケティングで作られているというカラクリを聞いたことが起因していて。雑誌にはすごく憧れていたし、世の中はマーケティングでできているというのは頭でわかっていても、やっぱりどこかで解せなかったんです。
――林さんは雑誌づくりにおいてコマーシャルな部分よりも、人への興味関心が強いように感じます。いわゆる一般的なファッション写真が嫌いだった理由についても、人種や体型などの属性以外を排除してモデルを選ぶところに排他性を伴うこと、表面的な部分に終始してしまうところにあったと本書で考察されていて、ハッとさせられました。
ファッション写真について『花椿』の時には実践で批評していたと思います。ホンマ(タカシ)さんやアネット(・オーレル)のように被写体の人となりや本質を写そうとするフォトグラファーと仕事をともにし、王道のやり方とは違うアプローチを表紙などの撮影でぶつけていました。
人への興味はずっと一貫してあります。私の場合、まず人の才能や仕事に興味を持つんですよね。今でこそ有名なソフィア・コッポラやマイク・ミルズといったクリエイターたちも当時は知る人ぞ知るような存在でしたが、彼らの視点の面白さや信頼できる感性に魅かれて一緒に仕事をするようになりました。そこには、各々へのリスペクトが必ずあります。
――だから、濃い関係性、信頼関係が生まれるんですね。
ただ関係をつなぐというよりも、リスペクトする人たちとともに仕事をすること、その人が持つ何かを伝えることが大事なんです。特に編集は言葉をもらう仕事なので、信頼できる関係性がないとそうした言葉は生まれないと思います。
編集という仕事についてもずっと考えていたんですが、編集者が企業のコンサルみたいになっていく流れは80年代から多かったんですよね。もちろん、都築(響一)さんのように編集を通して一人で作家的にクリエイティブなことに挑戦する在り方もありましたが、珍しかった。
私が見た編集の世界では女性が活躍していて、ケアの世界というか、気働きのようなものも含めて編集という仕事は回っている気がして。だから、編集の技能はいろんなことに応用できると思っています。
――90年代を『花椿』編集室で刺激的に過ごしたわけですが、林さんにとって90年代とはどんな時代でしたか。
難しい質問ですね。でも90年代は、時代の空気感としてDIY精神があった気がします。すごく上手にできたりビジネス的に成功するかわからなかったりしても、面白いことを追求していい、やってみようという気運があった。ファッションでいえば、キム・ゴードンの「X-girl」やソフィア・コッポラの「MILKFED.」など、ファッション業界でない人たちが着たい服を作ってブランドを立ち上げていく。そういう良さがあったように思います。
いま私はファッションとアートを比較しながらファッションの定義を新たにすることを研究していて、アートにも同じようなことが当てはまるんですよね。2000年以降、日本でも地方各地で芸術祭などのアートプロジェクトが増えていきましたが、その端緒が90年代にありました。神様のような作家が生み出した作品を受身で鑑賞するのがアートという概念が変わりつつあって、鑑賞する側も何かしら参加せざるを得ない形、参加型アートへと徐々に概念が変わっていったんです。そこでもやっぱり主体性が大事になってきていて、ただ生かされているだけの人間なのか、自ら能動的に動く存在なのかという問いかけがあったように思います。それは、誰もが一人ひとり声を上げてもいいということかもしれません。
――今の若者たちが90年代に注目するのは、そういう部分もあるのかもしれませんね。
そうですね。あとは写真を主流とする雑誌の視覚文化に漂う、楽しそうな雰囲気が求められているのかもしれません。要はコミュニティです。雑誌は自分が好きなものを好きな人たちが他にもいるということを物理的に示してくれるもの。だから、何かしらつながれるような希望があります。読者は自分一人だけじゃないという感覚です。ネット上でももちろんコミュニティはあってつながることはできるかもしれないけれど、雑誌のような手触りはない気がするんですよね。