【漫画】タコが侍になって現代社会に現る? 独特の世界観で描かれた漫画が話題
ーー侍として生きるタコ・喜八に格好良さ、可愛らしさを覚えた作品でした。創作のきっかけを教えてください。
ふじたかなす:本作は時代劇のような作品を描いてみたいと思い制作した漫画です。現代とは少し異なる価値観をもつ侍の存在は魅力的でありつつ、おそらく共感しづらい部分も多いと思います。アンビバレンスなふたつを共存した状態で描くことが本作のコンセプトでした。
ーー仇討ちを図ろうとしたり、「家に尽くすことのみが侍の生きる道なれば……」と話す喜八の姿は格好良さを覚えつつ、現代の価値観と照らし合わせると不気味なものとしても見えてしまいました。
ふじたかなす:喜八の敵にあたるタコの侍が水族館で飼育されていることもシュールといいますか、どこか不気味な状況だと思います。問題提起をしたいわけではありませんが、そんな不気味さは現代の社会にもあり、私たちは不気味さに違和感を抱くことなく、ひとつの当たり前として過ごしてるのかもしれません。
剣を持った侍が街中を歩いている光景は江戸時代では日常的なものでありつつ、現代では違和感を覚える光景です。本作を描くなかで世界が違うからこそ当たり前のことが不気味に見えることを表現したいと思っていました。
ーー喜八の価値観は異質なものとして見えつつも、郷土愛に関しては現代に生きる人にも共通する価値観も存在していたかと思います。
ふじたかなす:喜八は割と客観的で家族に対してどこか冷めてるところもありますが、それでも故郷を愛する気持ちは確かにありました。喜八にとっては家と剣と故郷がすべてであり、あまり自分のモノを持っていないんです。多くのモノを持っていないからこそ、おそらく喜八には故郷への愛があったのだと思います。
ーー侍として生きる喜八をタコとして描いた理由は?
ふじたかなす:自分はタコがすごく好きで、表情があまり変化せず、どこか無機質なところに魅力を感じます。そんなタコとの異文化コミュニケーションをテーマとしたお話をいつか描こうと思っていました。
タコと共に映画『幸福の黄色いハンカチ』も好きで。北海道を旅しながら高倉健演じる主人公が若者と交流していく物語なのですが、本作ではタコの侍と現代の大学生に置き換えて作品を創作しました。
ーー大学生の健太を描くなかで意識したことは?
ふじたかなす:喜八が死ぬことは最初から決めていたので、お話がただ単に不幸とか理不尽だけで終わるとさびしいので、喜八の思いを継いでくれる人がいてくれたら嬉しいなという思いで健太っていうキャラを出しました。父親がいて、その息子としての自分がいるという点で健太と喜八は共通していますが、健太には自分の好きなものとしてアニメという存在があることは喜八と大きく異なります。
そんな健太と喜八が旅をするなかで心を通わせて、旅の終わりに喜八の思いが健太を後押しする。喜八が救われるといいますか、喜八の生き方が響くものとして伝わればと思い健太を描きました。
ーー浴室にて喜八の思いを知った健太が「……なんでもない」と発したあと、脱衣所の洗面台に水滴が落ちる音が響いたシーンが印象に残っています。
ふじたかなす:あまり意識したわけではないのですが、そのときのふたりにとって言葉がいらない状況であったため、ふたりを画面からシャットアウトし、会話のない静寂を映すためにあのシーンを描きたかったんだと思います。これは決闘で喜八が死んだあとに子どもが「ママ!蛸さんが死んでる!」と話すシーンと似ていて、客観的な視点を描くことで“ふたり(あるいはひとり)しか知らない”ということを強調したいと思っていました。
ーー描くなかで印象に残っているシーンを教えてください。
ふじたかなす:果し合いのシーンですね。古典的なものを水生生物の世界で描きたいと思っていました。時代劇でよくある花びらが落ちるシーンを鯛の鱗で見立てたり、決闘する周りをエイがうろちょろしている様子などで異質感を強調して、タコにはタコの生きる世界があることを描けたかなと思っています。
対照的なふたりの価値観、ユーモラスにも格好良いものにも見えてしまう日常の不気味さを描きたかったので、水族館の場面とたこ焼きを食べるシーンには描きたいものを詰め込めたと思いますね。