「遭難もの」の異色作『死者は還らず』登山をしない人にもおすすめしたい人間へのあたたかい視点

 山岳書の世界には「遭難もの」というジャンルがある。文字通り、山岳遭難をテーマとしたものである。

 テーマからして当然、内容は暗く、悲惨なものとなるわけだが、読者の人気は高く、書籍はよく売れ、雑誌の特集では鉄板企画となっている。命に関わることだけに、自然と感情を揺さぶる話になるうえ、事故を起こさないためのなんらかの教訓が得られるのではないか……という登山者の切実な願望があるためだろう。

 有名なところでは、ジョン・クラカワーの『空へ』や、ジョー・シンプソンの『死のクレバス』などがすぐに思い浮かぶ。前者はエベレスト、後者はアンデス山脈での遭難事故を描いたもので、どちらも世界的ベストセラーとなり、映画化もされた。

(左から)ジョン・クラカワーの『空へ』(文藝春秋)ジョー・シンプソンの『死のクレバス』(岩波書店)

 日本でもこれまで無数の遭難書が刊行されてきて、名著とされるものも少なくないが、今回はそのなかでちょっと異色な一冊を紹介してみたい。丸山直樹というライターが書いた『死者は還らず』(山と溪谷社)という本である。

 この本では、実際にあった8件の遭難について取材し、その実態を明らかにしている。が、そこまでは他の遭難書でもよくある内容で、とくに変わったところはない。私が「異色」というのは、最終章の存在にある。

「遺族ーー残された者たちの思い」と題されたこの章では、本書で取り上げた8件の事故で亡くなった人の遺族を訪ね歩いている。遭難の当事者が書いた本や、当事者を取材した本は少なくないが、その遺族の声に正面から向き合った本は、私の知るかぎりこれ一冊だけである。

 その遺族の声とは、たとえばこんなものだ。

 父親は思いを吐く。
「危険が魅力だという、山登りの本質論は、子供を遭難させ、その苦しみを経験したことのない人間の考えだ。自力下山など、建前論に過ぎない。これだけ科学が発達しているのだから、なぜ山のなかと連絡がとれないのか。下山日が過ぎる前に、なぜ何らかの対処ができないのか。親の立場からすれば、山登りなど人生の一ステップでしかない。それを考えれば、万全の安全を確保して行くべきではないのか」
 登山の全否定である。理不尽なまでの極論である。
 だがそれが「親」なのだと、私は思った。

 私はこれを読んだとき、かなりハッとさせられた。

 私をはじめ、登山をしている人の多くは、遭難書を読んで、遭難の実態を知り、自然の恐ろしさを身に染みて感じ、自分はこういうミスはしないようにしようと自戒して本を閉じる。それで終わりである。

 ところが、遭難で亡くなった人にも人生があり、遺族がいる。遺族は登山などまったくしない人であることも多い。そういう人たちがどのような苦しみを抱えていたのかはほとんど想像したことがなかった。その具体例を突きつけられて、私はハッとしたのである。

 故人の関係者である山仲間は、自らが山の経験者であるだけに、故人の死を、実感としても現実としても「いたしかたなかった」と受け止めることができる。しかし反面、だからこそ遺族の心情を、見落としている場合が少なくない。自分たちが受け入れる仲間の死と、遺族が受け取る肉親の死との間にギャップがあることを、気づいていない場合が往々にしてある。弔うより先に、遺族の空白感を埋める努力をすることが、山を知らない遺族に対する、第一の死の儀式ではなかろうか。

 まさにこのとおり。山の遭難事故は、山を知らない人にとっては、死に至る過程を実感として想像することができない。ここが交通事故や病死などと決定的に異なる部分であり、その「想像できない」ことが、遺族の心の空白と感情のもつれを生む。私はこの本の最終章で、そんなことを教えられた。

 逆に、登山をしない人は、最終章で語られる遺族の声に共感するだろう。登山をしているやつは、なんでこんな当たり前のことがわからないのか。そんな怒りに近い感情さえ覚えるかもしれない。

 著者の丸山直樹という人は、自身も大学山岳部で登山をしていた人物。基本的に目線は登山者側にあるのだが、故人や遺族の感情面にも目を向けつつ叙述を進めていく。筆致にはややクセがあり、好みは分かれるかもしれないが、その根底にある人間に対しての目線はあたたかい。

 古い本だが、現在にいたるまで、こういうトーンで書かれた遭難書は見たことがない。本書は登山をする人にとっても、しない人にとっても、どちらにも得るものがある。だからおすすめなのである。

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