5GAPが語る、コントに捧げた人生の悲喜交交 「汗をかいて一生懸命やって、あとは先輩や後輩に骨を拾ってもらう」

5GAPが語る、コントに賭けた人生
安藤祐介『夢は捨てたと言わないで』(中央公論新社)

 連載『夢は捨てたと言わないで』は、小説家・安藤祐介が、今をときめく人気芸人たちから聞いた波乱万丈の半生の物語を綴るノンフィクションだ。

 27歳の元甲子園球児と35歳のお笑い芸人が力を合わせて再起を目指すストーリーを描いた、安藤祐介の同名小説『夢は捨てたと言わないで』(中央公論新社)のスピンオフ企画として、苦節を経て、それでもなお夢を諦めなかった芸人たちの生き様に迫る。

 第1回の錦鯉に続き、第2回では5GAPが登場。芸歴20年を超えるふたりが歩んできた笑いと涙のコント人生をお届けする。(編集部)

安藤祐介
1977年生まれ。福岡市出身。2007年『被取締役新入社員』でTBS・講談社第1回ドラマ原作大賞を受賞。2019年『本のエンドロール』が「小説界のM-1グランプリ」こと本屋大賞で11位、惜しくもノミネートを逃す。執筆取材は体当たり派。本書『夢は捨てたと言わないで』では自らネタを書き、お笑いライブにも出演した。他の著書に『営業零課接待班』『不惑のスクラム』『六畳間のピアノマン』などがある。

夢の原点はドリフターズ

左、クボケンさん。右、トモさん

 ツッコミ担当のトモさん(秋本智仁さん)と、ボケ担当のクボケンさん(久保田賢治さん)。歳の差5つで、5GAP。お二人とも40代、芸歴20年を超えるベテランコンビだ。

 コミカルな動きとドタバタの展開で笑いを重ね、一撃必殺ならぬ一撃必笑の顔芸が炸裂。5GAPのコントを観ると、懐かしい心地がする。動きや顔芸で思い切り笑ってしまう、この感じ。子供の頃にドリフターズのコントでゲラゲラ笑った時の気持ちだ。

 お二人とも、子供の頃からお笑い好き。夢の原点はドリフターズだった。
 トモさんは『8時だョ!全員集合』の生放送をリアルタイムで観た最後の世代。
「小学生の頃は、毎週土曜日が楽しみでしたね。それこそ千葉県のどこかの市民会館で、ドリフを生で観たこともあります」
 一方、群馬県で生まれ育ったクボケンさん。
「ぼくは『全員集合』はリアルタイムじゃなく『ドリフの大爆笑』『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのだいじょうぶだぁ』とかを見てました。特に志村さんが大好きですね」
 幼い頃の5歳差は大きい。クボケンさんが小学1年生の時点で、トモさんは6年生だ。
 5歳差のドリフ大好き小学生だったお二人が10年余の後に出会い、40代になった今も自分たちのコントを追求し続けている。

 クボケンさんがお笑い芸人の夢を胸に宿したのは、小学3年生の時。モノマネが得意な同級生と「モノマネ番組のモノマネ」みたいなことを始めた。やがて四人組のお笑いグループ『ぺえ特戦隊』を結成。クラスのお楽しみ会でネタを披露した。
 同じ頃に剣道を習い始め、土曜の夜に稽古が入ることもあった。『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が見られずもどかしく思いながらも、剣道の稽古に励んだ。
「思えば、剣道の動きが、コントの動きのベースになってるんですよね」
 トモさんは「そんなこといま初めて聞いたよ! 武術の達人みたいなこと言ってるな」とツッコむ。
 夢は変わらぬまま高校3年になり、進路相談の時期を迎えた。担任の先生は3年間ずっと同じ。先生はクボケンさんの夢を知っていて、養成所についての情報を教えてくれた。その中のひとつに、吉本興業の養成所・東京NSCがあった。
「NSCはテレビで見たことがあって知っていたので、ここに入ろうと思いました」
 両親、特にお父さんには反対された。
「学校の先生になりなさいって、ずっと言われてましたから」
 でもクボケンさんは諦めなかった。自分でNSCの資料を取り寄せ、勝手に面接を受けに行き、合格通知を両親に見せた。
 最後はお母さんが「そこまでやりたいなら」と、陰ながら動いてくれた。アパートの賃貸契約を許してもらい、東京へ送り出してもらった。

 一方のトモさんも「子供の頃から目立ちたがりでした」と振り返る。
「それこそドリフを見て次の日にものまねするとか、そんな子供でしたね」
 高校の文化祭などでも友達とネタを披露し、お笑い芸人を夢見ていた。卒業前、その友達に一緒に吉本に行かないかと声を掛けた。しかし「家業を継ぐ」と断られた。
「コンビを組んでないと養成所には入れないと思い込んでいて、一度は就職しました」
 専門学校に通って国家資格を取り、美容師になった。しかし、お笑い芸人の夢を諦めきれなかった。
「養成所のチラシを見たらひとりでも入れると分かって。それで人生後悔したくないって、思ってしまったので」
 決心して、両親に話したところ、反対された。
「固い親だったので『うちの家系にそういう人はいないだろう』とか言うんですよ」
 養成所に通ってみて、ダメだったらまた戻って働く。トモさんもまた、両親の反対を押し切った。

 こうして、5歳差の二人の人生が交差する。トモさん23歳、クボケンさん18歳の春だ。東京NSC第5期の同期生として出会った。
 同じクラスで、お笑いの基礎から学んだ。ある日の授業、クボケンさんのパントマイムに、トモさんが惹き込まれた。
「水が入ったバケツを片手でぐるぐる振り回す設定で、めちゃくちゃ上手いんですよ」
 養成所内のネタ見せが始まる時期を前に、コンビを結成した。
 最初の頃は漫才をやっていた。しかし、ある日のネタ見せで、クボケンさんの動きを見た先生が言った。
「君の動きは漫才よりもコントに向いている。コントの歩幅なんだよね」
 ドリフのコントを見て育ったお二人は、この言葉をきっかけにコントの道を歩み出した。以来、養成所内のオーディションにも受かるようになった。

 NSC卒業後1年目の2000年、いきなりチャンスが訪れた。『はねるのトびら』の前身番組『新しい波8』に出演。しかし同じ回の競演者が、漫才コンビ『スープレックス』を解散した直後の劇団ひとりさんだった。圧倒的な力の差を見せつけられた。
 ここから数年間、テレビでのオンエアもなく、不遇の時代を過ごすことになる。

苦しい時期に支えてくれた同期たち

 夢を追う一方で、お金の苦労は付きまとう。
 クボケンさんは新宿の居酒屋でバイトしていた。だが吉本のライブ出演や、先輩芸人からの呼び出しなどが急に入ってシフトを欠勤することも多く、クビになってしまった。
「当時は先輩からの呼び出しは絶対でしたからね」
 それに芸人たちの間で「バイトをするのは格好悪い」「バイトする暇があるなら芸を磨け」という風潮があった。自ずと、空いた時間に入れる登録制の日払いバイトが中心になった。生活はますます苦しくなる。
 トモさんは、力仕事系の登録制バイトでしのいでいた。30歳ぐらいの時、バイトで一緒になった俳優志望の若者に「おじさんさ、夢とかないの?」「俺は絶対ビッグになるからさ。おじさんも何か夢を探しなよ」と言われて、悲しくなったという(その若者こそ、後の……といった劇的な展開はなく、彼をテレビなどで見かけることはなかった)。
 そんな苦しい時期、同期の存在は大きかった。
 クボケンさんは平成ノブシコブシの吉村さん、元ふくろとじのてつみちさんと同居していた。トモさんもよく出入りしていた。
「お笑いのことを話したり、悩みを相談したり。半ば家族みたいな存在ですね」

 トモさんには、芸人を始めた23歳の頃から長く付き合った同級生の彼女がいた。30歳になる頃、その彼女から結婚を切り出された。芸人としての収入が少なかった頃だ。結婚はできないと言ったら、彼女は部屋を出て行ってしまった。
「家賃を彼女に立て替えてもらっていたので、フラれて、家を失いました。冬の公園で二晩ぐらい野良猫を抱いて暖を取りました」
 助けられた恩人は多すぎて挙げきれないというトモさんだが、猫にも救われていた。
 クボケンさんたちの部屋にも泊めてもらったが「ずっと居るのも、さすがに悪いですから」。
 友人の懐石料理店の倉庫で寝泊まりさせてもらった。
「ありがたかったけど、倉庫が高速道路沿いだったので、振動で大皿が落ちてきたりして」

 その後、何度か大きなチャンスが訪れた。
 2007年から2008年にかけて『爆笑オンエアバトル』に挑戦し、出場7回のうちオンエア6回の堂々たる戦績。しかし2007年のチャンピオン大会にはボールわずか1個差で進出ならず。
 同じ頃、『爆笑レッドカーペット』に出演。クボケンさん扮する「ホワイト赤マン」のコントで人気を博し、レッドカーペット賞も獲得したが、お笑いブームの減退と共に番組は終了。
 2013年には『日10☆演芸パレード』で5週連続勝ち抜きを達成したが、その後間もなく番組が終了。
 キングオブコントでは2011年から4年連続で準決勝へ進出するも、決勝には手が届かず。不勉強なお笑いファンである筆者にも、これは並みの力では成しえない実績だと分かる。
 しかし、あと一歩のところでブレイクしきれない。

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