大谷能生×吉田雅史が語る、近年の音楽書の傾向とその可能性 「ファクト重視で念入りに検証した批評が増えている」

大谷「1冊読んだことに対する充実感があるという部分も大事」

大谷:最近の本だと平倉圭さんの『かたちは思考する: 芸術制作の分析』(2019年/東京大学出版会)のようなアプローチも、音楽に対して有効だと思います。この本は美術やパフォーマンスの詳細な分析を行いながら、それに対して芸術論をどう当てはめていくかということをやっているんですけれど、同じようなことはポップミュージックに対してもできるはずで、そこに印象批評の次の可能性があるのではないかと。例えばこの本ではモアレという概念で説明しているんですけれど、これは本来2つあるものを1つにした時に何が起こるかという話なんですね。で、僕らの目や耳は2つあって、そのギャップがあることで世界を三次元的に捉えられる。ところがテキストというのは単線で表現されるもので、そうじゃないと言語的に認識することはできないわけです。だからテキストを書く際、我々は普段2つの目や耳から得ている情報を、無理やり1本の線の中に押し込んで、ページという面を形作っているわけですが、読者は読者で、1本の線の中からそこに押し込められた時間や空間を取り出して読んでいる。その時に、どういう変換が起こっているのかを検証すると、色々と語れると思うんです。同じようなアプローチは、単線で表現された歌詞やメロディに対してもすることができるし、それこそ宇多田ヒカルの歌とか、ラップではどういう風にしているのかということを紐解いて、どういう仕組みで人が快楽を感じるのかを論じたりすると、結構面白いのかなと。

吉田:モアレといえば、佐藤雄一さんが以前、『ユリイカ』(青土社/2016年)の日本語ラップ特集で、KOHHについて書いた論考があって。オートチューンで加工した声がトラックと馴染むという話をモアレを用いて論じていて、すごく腑に落ちた。言語として聞こえてくる箇所と、音として聴こえてくるトラックが並走して一つになる瞬間があって、それがモアレの縞模様のように現れてくるのが気持ちいいと。その話の延長として、先ほどの『エレクトロ・ヴォイス』で詳細に触れられていたヴォコーダーは元々暗号化の用途で開発されたってのがありましたが、オートチューンはその発展形だと。オートチューンの普及の要因となったカニエのアルバム『808s & Heartbreak』(2008年)は、彼の個人的な悲劇的体験を歌うにあたって、それを生声で表現するには生々しすぎるということでオートチューンをかけたわけですよね。いわば声とそれに伴う感情を暗号化している。だから、モアレを構成するのは声とサウンドだけでなく、感情も含まれるんじゃないか。そう考えると、オートチューンがかかった機械的な声にこそエモさを感じる理由を探る手掛かりにもなる。感情が半分暗号化されて抑圧されるからこそ、モアレのように表れるもう半分が鋭角に刺さって来るのかなと。

大谷:歌モノを聞くとどうしても線を探しちゃうんだけれど、オートチューンをかけると言語なのか音なのかが曖昧になるんですよね。それでトラックと馴染むというのはたしかにあると思います。ちょっと話が変わるんですけれど、Twitterとか読んでいると、みんなすごくイライラして怒っているじゃないですか。多分あれは、話す言葉と書かれた言葉の重なる部分にイライラしているんだと思うんですよ。Twitterは書かれたテキストであって、直接その人から言われたわけではないのに、混同して怒っている。読み書きと喋るのは、全然違う行為で、書くのは教育を受けないとできない社会的行為なんですよ。なのに、みんな混同して「この人にこういう風に言われた!」とか言って怒っている。

吉田:事実として、本人に直接言われたわけじゃなくて、その人が書いたツイートを読んでいるんだよ、という話ですよね。

大谷:Twitterはたぶん、我々には早すぎたんですよ。あと、無線も早すぎたんじゃないですかね。おそらく、みんな無線がどういうものなのかわかっていない。書くのは良いんですけれど、アップロードする前に一度、有線に繋がなくてはいけないとか、そういう制約があったほうが良いんじゃないかなと。ちょっと前はパソコンと電話線が繋がっていたから、それで「この電話線の向こうにはたくさんの人がいるんだ」って感覚的に理解していたし、その安心感みたいなものもあったと思うんですよ。でも、今はその実感がなくて、不安になって自分で一生懸命に線を引いているというか、テキストを書いていると。「俺はここにいるよ!」って。で、それを自分から勝手に読んだ人が「うるさい!」と怒っている。

吉田:繋がらなくてイライラしているんじゃなくて、繋がっていることに対してイライラしているというのは、すごくよくわかります(笑)。

吉田:ところで平倉圭さんの著書には、ゴダールだけを一冊論じた『ゴダール的方法』(2010年/インスクリプト)もあって、そこではダイアグラムも用いた精緻な映像と音の分析が展開されます。最近の音楽本ではそのような作家論だけでなく、『ナイトフライ』や僕が訳した『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』のように、一冊まるごと一枚のアルバムで書ききるものも目立っているなと。これは33 1/3シリーズの功績も大きいと思いますが、一冊同じ題材で書くには色々な側面からの分析が必要となるから、それこそ印象批評だけでは成り立たない。サブスクリプション時代に大量の音楽の海にさらされて、それらにまつわる大量の情報がネットに溢れているからこそ、一冊かけて徹底的に一枚を論じるような批評が求められている側面もあるのかなと。広がりの中であえて一点集中の深みを目指すという。

大谷:そういう本には読書の楽しみがありますよね。音楽評論として面白い切り口というのも大事だけれど、本として考えると、1冊読んだことに対する充実感があるという部分も大事だし、こうしたレビュー本のクリエイトは確実にあがっているとも思います。

吉田:大谷さん1枚のアルバムで1冊を書くとしたら何を題材に書きたいですか?

大谷:オーネットの『フリー・ジャズ』(1961年)ですね。実はちょっとやっていて、あの37分の曲を丸ごと全部、8人分のプレイを譜面にしてみようと思っているんですよ。MIDIで全部打ち込んで、そのデータを譜面にしちゃおうと。それで、この人がこういう演奏をしているタイミングで誰がそれを聴いていて、誰が聴いていない、みたいなことを分析していきたいなと。各プレイヤーのプロフィールも掲載して、各々の代表作とも比べて、その時に何が起こっていたのかを検証していく。絶対に面白いと思うんですけれど、それを本にしましょうという依頼はなさそうだし、締め切りがないと延々とやってしまいそうですね(笑)あとはドラマーの白木秀雄で1冊書いてみたいですね。昭和初期の日本の音楽家にはけっこう面白い人がいるんだけれど、横断的に書くと重くなってしまうから、あえて白木秀雄だけで書くという。

吉田:両方ともめちゃくちゃ読みたい(笑)。対象を絞って1冊で書くという手法は、まだまだ色々可能性がありますよね。言ってみればこれだけリリースされているどのアルバムにも誕生の経緯があり、分析されうるコンテンツがあるわけですから。あとは冒頭にも少し話がでた、90年代前後の音楽のサブジャンルの検証本も充実していくことに期待です。

大谷:それは90年代から00年代の日本の音楽雑誌のレビューをやればできそうですね。「最初にデスコアという言葉を作ったのはこの雑誌」みたいな感じで検証して。それで言うと、ライブハウスという言葉の初出も気になるところ。なんで日本ではコンサートじゃなくてライブなのか、そもそもライブのハウスってどういうこと?って思うんですよ。それって、演劇とかの〇〇小屋みたいな感覚から出てきたのかなとか、誰かにしっかり検証してもらいたいです。

吉田:当時の雑誌を読んで僕らは何を感じていたのかも、いまだからこそちゃんと思い出しておきたいところです。今でこそ情報の摂取の仕方が変わってしまったけれど、昔は『ファミリーコンピュータMagazine』や『少年ジャンプ』に掲載されていた、発売が2ヶ月先の『ゼルダの伝説』や『ドラゴンクエスト』の記事を穴の開くほど見つめて、とてつもない妄想を膨らませて楽しんでいたわけですよね。紙媒体を手元に置いて何度も繰り返し眺めるという、情報へのアクセスに制限があった時代だからこその楽しみだった。それを今、書籍という媒体について考えるときに改めて振り返ることで見えてくることもありそうです。

(取材・構成=松田広宣)

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