ヒグチアイの音楽は感情を沈めて生きる人の拠り所に Zepp DiverCity公演で届けた“お守り”の歌

息を呑んで見つめる観客の視線の先、ヒグチアイは暗がりの中、灯りを頼りにピアノの前に腰を下ろした。そして会場に鳴り響く、低く、重いFの打鍵。その音は、私たちが滞りなく日常を送るために心の底に沈めていた何かを、ふつふつと呼び起こした。

6thアルバム『私宝主義』を携えたツアー『HIGUCHIAI solo/band tour 2025-2026 “ただわたしがしあわせでありますように”』。2月13日に開催された、東京・Zepp DiverCity(TOKYO)公演。1曲目の「静かになるまで」から、ヒグチのボーカルとバンドサウンドの生々しさが際立っていた。そのゴツゴツとした質感には、滑らかに整えられることを拒むような手触りがある。2曲目の「バランス」では観客も手拍子を重ね、〈つまんない人間になっちまったな〉というコーラスが空間に広がる。普段人に言う機会もないような言葉が、ここでは高らかに歌われている。そのことに、私は奇妙な安堵を感じていた。

現代において、感情を外に出すリスクは上がり続けているように思う。炎上はできる限り避けたいし、コンプライアンスにも違反したくない。無難であることが安全に繋がり、怒りや孤独も上手く処理することが求められる。だけど、日々いろいろなことがある。ずっと平穏でいるのはまず無理だ。だから感情を沈めてやり過ごす。言えないから沈める、という回路がいつのまにか当たり前になる。自分で自分をケアする方法を覚えたからといって、心が頑丈になるわけではなく、実はずっと傷だらけだ。そんな社会の空気の中で、ヒグチアイの音楽は感情の漂白も処理もしない。沈めていた感情をそのまま掘り起こし、存在を肯定する。よくここまでやってきたね、と。
「そろそろみんなのアルバムになってきているんじゃないかと思いますが、書いた時のことを思い出しながら、そこから私の気持ちが変わっていることも、みんなの気持ちも変わっていることも思いながら、歌えたらと思います」
ヒグチはそう語りながら、『私宝主義』の楽曲を中心に披露した。「一番にはなれない」は4つ打ちのビートに貫かれたダンサブルな楽曲だが、浮上せず、深く沈んでいくような趣があり、来世での成就を願う情念が滲んでいた。単独で聴くと一途な想いを歌っているようにも解釈できる「もしももう一度恋をするのなら」は、曲順も相まって、悲恋の歌として響いた。ヒグチが「ちょっと昔の曲です」と紹介し、一人弾き語りで歌った「誰かの幸せは僕の不幸せ」は、〈僕らはとても弱い〉と歌う声にリバーブがかけられ、空間に溶けていった。

バンドサウンドに戻り、「ぼくらが一番美しかったとき」へ。地を揺らすベース、連打されるシンバル、空間系のギター……そこに同期のストリングスが重なり合い、心がざわつくような音像が広がった。喪失を抱えたまま、それでも前へ進む意志を歌ったこの曲。楽曲の終盤、ヒグチが一人で〈信じてる たとえもう会えなくても〉と歌った直後、ドラマティックなバンドサウンドが鳴り響いた。同時にミラーボールが回り、初めてフロアに光が降り注ぐ。それまで内側へと向かっていた時間が、ここでふっと外へ開けた。


息が詰まるような緊張感の中での「誰」を挟み、その後始まったのはスリリングな疾走。「雨が満ちれば」で、腹から歌われる〈走れ〉という言葉は力強かった。「エイジング」で左腕を高く掲げながら鍵盤に向かうヒグチの姿は、まるで嵐の中へ自ら踏み込んでいくかのようだった。泥臭く、人間的な音の奔流。ヒグチはその場で立ち上がってフレーズを弾き倒している。ラストの音が叩きつけられると、フロアから一際大きな歓声が上がった。

15年ほど前にZepp Tokyoに行って以来、いつかZeppでライブがしたいと思っていたこと。今回その夢が叶い、自分の中には「最短距離で来た」という実感があること。Podcastを聴いた兄から、「すごくいろんなことを気にするんだね」と言われたこと。習い事で歌を歌っている祖母が「一音目を歌い始めるのが楽しい」と笑っていたこと……。ヒグチはMCで実に様々な話をしていた。
そして「推し活と真逆みたいな話をするのだけど」という前置きとともに、次のように語った。
「迷っても悩んでも一人で生きていけるように……そんな気持ちで曲を書いているもので。軸をしっかり持って、足りないものがあるとしたら曲から軸に足して、パンパンにして、またその場所に立って生きているみんなが素敵だと思ってます。そんなふうになれないって人は“一緒にいましょう”だし、そうなれてもまた(足りないものを)思い出したいって人も、“一緒にいましょう”だし。日々思うのは、自分で立っているみんなが素敵だなということです」
このMCを受けて演奏されたのが、「わたしの代わり」だった。〈きみはそれでいいのよ/と言われると/こんなんじゃダメって思う/きみはもっとこうしなよ/と言われると/なにがわかるんだって思う〉——「みんなが素敵」と語った直後に、肯定の言葉を素直に受け取れない人の心境を歌うのがとても彼女らしい。全部投げ出したくなる瞬間も少なくない人生の中で、それでも自分の足で立とうとする人を、ヒグチは清濁含めて肯定している。


ヒグチが「ありがとうございました!」と告げると、観客が自然と席から立ち上がった。観客の手拍子とともに、晴れやかに演奏された「祈り」では、歌詞の一部が変えられる。「明けない夜を越えて/ここまできたんだね/自分だけを信じて/本当によかった」というフレーズは、間違いなく今日まで生きてきた観客に向けられていた。ヒグチはマイクを手に、フロアを覗きこみ、観客に手を振り、〈きみのそばにいたい〉というメッセージを贈る。そして「今後も続いていく人生、私の曲がお守りになって、薬になって……もしかしたら毒になるかもしれないけど、それで耐性がついて。そういう曲であってほしいし、ヒグチアイであってほしい」と「花束」を届け、本編は終了。アンコールでは、未発表の新曲が披露された。


最後にヒグチは言った。「元気じゃなくてもまた会いましょう」と。ヒグチアイは、ヒグチアイの場所で、自分の歌を歌い続ける。そしてその歌は、自分の足で歩む人がいつでも立ち寄れる場所であり続ける。
◾️セットリスト
1. 静かになるまで
2. バランス
3. 恋に恋せよ
4. 一番にはなれない
5. かぜ薬
6. もしももう一度恋をするのなら
7. 誰かの幸せは僕の不幸せ
8. ぼくらが一番美しかったとき
9. 誰
10. 雨が満ちれば
11. エイジング
12. わたしの代わり
13. わたしはわたしのためのわたしでありたい
14. 祈り
15. 花束
EC. 未発表新曲

























