土屋公平:スライダーズ、麗蘭……無二のギタリストが巡り合った代え難い居場所 「今井智子 ロックスターと過ごした記憶」Vol.5

ロックスターと過ごした記憶:土屋公平

スライダーズ結成前夜、“バンド”への複雑な想い

 いつのことだったか、2人のギターの応酬について話した時だと思う。公平がポツリと言った。

「みんな、あんま言わないけどHARRYはギター上手いんだよ」

 技術的なことを言っているのではない部分もあるだろうが、それよりも2人で会話するようにギターを弾いてきたからこその言葉に思えた。その会話を聞き取ることができるのは、きっと2人だけなのだ。

 HARRYもそうだが公平もロックやブルースやソウルミュージックが心底好きでギターを弾くことを何よりも愛していて、2人が出会ってバンドをやるのは天命だったのではないかと思う。けれど最初から意気投合したわけではないようだ。2人が、というかTHE STREET SLIDERS(以下、スライダーズ)になる4人が出会った頃、HARRYはJAMESこと市川洋二(Ba/Vo)とすでにスライダーズの名前でバンドを組んでライブをやっていて、公平はZUZUこと鈴木将雄(Dr)と音楽仲間になっていた。スライダーズを見た公平はHARRYの歌に衝撃を受けたと言う。

「すごいショックだったんだよねえ……他の一緒に出てたバンドと全然違ってたよ。すごいんだ、歌が。(中略)日本語だしねえ。それでR&B。歌詞と歌でね、びっくりした」(※1)

 一方、公平のギターにブルースを感じたHARRYは、公平が働いていたロック喫茶に顔を出しバンドに誘うが快諾されなかった。気軽に誰とでも付き合うようなタイプではなく、むしろ衝突することが多かっただろう当時のHARRYが声をかけに行ったというのもなかなかの事件だと思うが、公平のほうもバンドに対して慎重にならざるを得なかったようだ。

 スライダーズに加わるまで公平は、ちゃんとしたメンバーになることもなくバンドを渡り歩いていた。もっと遡れば中学生の頃にギターを弾くようになり、クラスメイトとバンドを組んだけれど、楽しくバンドをやってみたいだけの連中と本気でやりたい公平との気持ちの温度差が大きくて長続きせず、公平はひとり家でギターを弾く日々が続いた。彼のバンド経験の原点は、そうしたところにあるのだろう。進学した高校が楽器店やレコード店の多い御茶ノ水だったので、ますますロックやブルースにのめり込み、ZUZUとつるんだり他のバンドに加わったりしながら、入り浸っていたロック喫茶で働き始めた。大学には進学したものの当然ながらドロップアウト。

「バンドがね、嫌いだったんですよ。それは学生時代に……今でも悲しい思い出としてあるんだけど……バンドを3回やろうとして、3回ともダメだったんですよ。1回目は中学の時、2回目は高校の時、3回目は大学の時。みんな嫌な経験してるんだよね。それで『もうバンドなんかやりたくない』って思って、家に引きこもってヘッドホンつけてギター弾いて。でも、またやりたくなって」(※2)

 思うようにならないからと言って他人を責めることはせず、自分で抱え込んでしまっていたところに彼の優しさが見て取れる。自分の気持ちと裏腹に、固まる前に壊れていくバンドに公平は複雑な思いを抱いたことだろう。大学時代には巡業をするプロのバンドに参加したこともあったが、そこで見たものも理想とは遠いものだった。その頃から小学校からの知り合いで珍しく相性の良かったZUZUとバンドを組んだりしていたが、バンドへの憧れや思い描く理想と自分を取り巻く現実とのギャップに苦しんでいたのだろう。そんな公平がHARRYの誘いを受けたのは、自分の逡巡を超える何かをHARRYが持っていることを感じて覚悟を決めたからだと思う。HARRYが生半可な気持ちで誘っているわけではないとわかっていたからだろうし、だからこそ本気で取り組まないわけにいかないと腹を括ったからだろう。ZUZUも、それまではいくつかのバンドを掛け持ちしていたが、公平と一緒に参加したらスライダーズ1本で行くと決めたとか。

THE STREET SLIDERS 写真
土屋公平、村越弘明

独自の美意識でスライダーズに咲かせた“華”

 スライダーズの4人は、HARRYとJAMES、蘭丸とZUZUという2つのコンビが合体したバンドだ。共に音楽に惹かれ自分たちだけのバンドを作ろうと模索していたが、彼らの持つ強い思いを共有できるメンバーとは出会えずにいた。だがThe Beatlesがそうだったように、スライダーズも4人が出会ったことが全ての始まりだった。そしてThe Beatlesも始めた頃は不遇だったように、スライダーズも出だしは順調とは言えなかったけれど、4人は曲を作りバンドを固めてライブを重ねることに集中していた。その頃について聞いた時だと思う。公平が言った言葉が忘れられない。

「バンドは、メンバーが変わると1から新しいバンドを組むようなもんだから。大変なんだよ」

 音楽サークルのように気楽にバンドを組んでみるのではなく、ガチで4人で音を出し、曲を作ってライブをやっていくという覚悟を彼らは固めていたのだと思う。それを裏づけるような言葉だった。スライダーズは順調に活動を続け全国のライブハウスツアーからホールツアー、日比谷野音(現・日比谷公園大音楽堂)、そして1987年1月には初の日本武道館公演と足跡を残していく。HARRYから目を離さず絶妙のタイミングでギターリフを入れ、冒頭に書いたようにギターの応酬を見せる公平はカラフルなギターと衣装のイメージも相まって、いぶし銀のような渋みを感じさせるHARRYとは対照的にスライダーズの華のような存在だった。

THE STREET SLIDERS 写真
THE STREET SLIDERS

 彼らのステージ袖には何十本ものギターがスタンドに並んでいて圧巻だった。HARRYの5弦テレキャスターはチューニングを変えたものが何本もあり、公平のレスポールやストラトキャスターはそれぞれが美しいサイケデリック模様にペイントされていた。もちろん、中身も存分に改造されていただろう。彼ならではのセンスと美意識で彩られ自分だけの音を鳴らすギターを彼は何本も持っていた。ペインティングのルーツは子供時代にあったようだ。一人っ子だったから、家では一人遊びが好きでプラモデルに熱中し、戦闘機にせっせと色を塗っては天井から吊るして空中戦ごっこをしていたとか。こんなところからオリジナルペイントが始まったのだろう。ギターペインティングの腕も時とともに随分上がっていたように思う。そういえば、漫画家の上條淳士との対談(※3)でも、2人でプラモ話で盛り上がっていた。

上條:プラモデルねえ(笑)。たまに、フッとね、なんか、作りたくなる。

土屋:でもねえ、作ってる最中って夢中だからさぁ。

上條:もう“ハマる”って言うの?

土屋:全部忘れちゃうって言うか。で、出来たら終わり。……まぁ退屈しのぎだろうけど……でも、忙しくても作っちゃうよね。

 楽曲に目を向ければ、デビュー前にHARRYが書いていた曲を中心にライブをやりアルバムを作っていったが、3rdアルバム『JAG OUT』(1984年)からHARRYと蘭丸のソングライターチーム JOY-POPSが登場する。The Rolling Stonesのミック・ジャガーとキース・リチャーズの“The Glimmer Twins”に倣ったユニット名だ。ツアーにレコーディングとバンド中心の時間が流れていく中で、HARRYと公平が楽曲やアレンジについて以前にも増して話し合うようになったことや、多忙なスケジュールの中でHARRYの楽曲制作が遅れることもあって、2人はタッグを組むようになる。また公平名義の曲「OUT DOOR MEN」もアルバムに入り、作詞作曲の才も開花させていった。自分の新たな可能性を感じ、かつて自分が思い描いていたようなバンドでの活動を実感していたのだろう。

 JOY-POPSは本来なら楽曲を作るにとどまるはずだったが、1987年9月にZUZUが交通事故で入院するというアクシデントがあり、バンドが休止状態になった。当のZUZUはもちろん、4人全員がうろたえたと思うが、公平はひときわショックを受けていた。盟友 ZUZUが怪我をしたということに加え、バンドが動かなくなるのは居場所がなくなるような思いがしたのだろう。そんなタイミングでJOY-POPSがライブユニットとして始動。2人がアコースティックギターを弾くライブは新鮮な驚きがあったし、バンドは続くという安心感をファンに与えると同時に、彼ら自身も確かめていたように思う。また、甲斐よしひろがソロプロジェクト KAI YOSHIHIRO & PROJECT Kに公平を呼んだ。The Rolling Stones好きの甲斐が公平に声をかけたのは腑に落ちる。スライダーズに入ってからは他で弾いたことのなかった公平には、(言い方は悪いが)気分転換になったのではなかろうか。

仲井戸“CHABO”麗市とのセッションから得た新たな刺激

 1988年にZUZUが復帰し活動を再開したスライダーズは、翌年7thアルバム『SCREW DRIVER』を発表、ツアーも行った。同年12月に公平らしきペインティングに包まれた缶ケース入り8cm CDシングル3枚組『ROUTE S・S』(1989年)に、スライダーズ、JOY-POPS、公平ソロ曲が入っていたのは、バンドにおいてソングライター/シンガーとしての公平が大きな存在であることを改めて示した、と言えようか。これに続いてリリースされたスライダーズの8thアルバム『NASTY CHILDREN』(1990年)は全曲がJOY-POPS名義だった。この作品についてHARRYは、こんなことを言っている。

「この頃から俺は曲づくりに行き詰まり出していて、この作品はかなり公平に頼ったかな。歌詞だけでなく、かなりの曲を一緒に作りましたね。なんかね、レコーディングとツアーの繰り返しになるのが嫌になっちゃって……」(※4)

 HARRYを心配そうに見守る公平が眼に浮かぶ。スライダーズを続けるためにHARRYが頑張っているのだから自分も頑張ろうと公平は思っていたのではないだろうか。JOY-POPSもそんな風に始まったのではなかったかと想像する。しかしアルバムをリリースしツアーを行った後に、バンドは冬眠(無期限活動休止)を発表。また居場所を見失った公平に、同じくRCサクセションが活動休止していた仲井戸“CHABO”麗市とのユニットが提案された。人見知りの2人は居酒屋でビールをチビチビ飲みながら盛り上がらない一夜を過ごしたらしい。そのうちに公平が「自分のことを話したい」と言い出したとCHABOは振り返る。

「きっとその時間が、そのまま終わってしまってはとすごく焦ったんだと思う。何話したかは覚えてないけど、こんなつもりでバンドやってんだ、みたいな話だったんじゃないかな」(※5)

 公平の言葉にCHABOは、それだけ自分をさらけ出す公平とは相当な覚悟をしていかないと付き合えないなと思ったという。そして2人はセッションをすることになりスタジオに入った。初めて聴くCHABOの曲にギターを合わせていくうちに、公平の中で何かが変わった。

「それまで自分の音楽は全部封印して道を狭めたところでやればいいし、それが一番手っ取り早いんだと思ってたところもあったんだけど、自分が封印してた部分が、言葉で外れてくのがわかったんですよね。狭めちゃいけないんだっていうのを、バン!と感じたんです。それは、多くはチャボさんの歌の世界。例えば間奏が8小節あったとして、そこでチャック・ベリーみたいなギター弾いても、何の足しにもならない世界というのを、僕は初めて触れた。それよりもっとやらなきゃいけない、弾かなきゃいけないギターがあるって思わされるようなね。今まではチャック・ベリーでよかったんだけど。もっと言葉にくっついたり離れたりするような、そんな駆け引きのあるようなものっていうの。それは初めての体験だった」(※6)

 ライブをやってみよう、と始まった麗蘭はツアーをやりアルバムを作り、様々なサポートメンバーを迎え、不定期ながら今も続いている。スタジオアルバムは現在まで3作だが、恒例となっている京都・磔磔での年末ライブ盤は『2005年盤』から毎年リリースしてきた。来年は結成35周年になる。

ソロ活動で見つめ直したルーツ スライダーズという“実家”への帰還

 麗蘭と前後して公平は、以前から自分の音楽に取り入れていたレゲエを本格的にやろうとThe 99 & 1/2を立ち上げた。若きレゲエシンガー PJをフロントに据えてスタート。さらにELLIE(元ラヴ・タンバリンズ)、のちにはCHARA、浦嶋りん(現・浦嶋りんこ)、RIE、Dejjaを迎えた音源を残している。公平が広げたつながりはスライダーズにも反映され、「Can't Get Enough」のMVにPJとELLIEが登場したりもした。こうした動きについて公平は親しかった音楽ライター 佐伯明氏のインタビューでこう答えている。

「……つながってるんだけどね。ある意味ソロ活動ってのは自分にとって学びの場であるし、それに……音に対してフレッシュな感覚を持ち続けるって為のものでもあるしね。プラスの還元をスライダーズにしたいっていつも思ってる」(※7)

 スライダーズはデビュー10周年となった1993年に日本武道館公演を、翌年には3年ぶりの全国ツアーを行った。1995年に9thアルバム『WRECKAGE』、1996年に10thアルバム『NO BIG DEAL』をリリースしたが、これが最後のスタジオアルバムとなった。以後はライブを行いながらベスト盤やライブ盤を出し、2000年10月にスライダーズは日本武道館公演で幕を閉じた。最後のファンクラブ会報に寄せた文の中で公平はこう記している。

「なあ、俺たちは十分PLAYしたんじゃないか?
 ふさわしいやり方で演り切ったんじゃないか?」

 どのようにスライダーズへの思いを整理したのかわからないが、自分を納得させようとした言葉のように思える。ソロアーティストとして歩み出した公平は、KinKi Kids(現・DOMOTO)のバラエティ番組『堂本兄弟』(フジテレビ系)のレギュラーバンドの一員となり、甲斐よしひろや大黒摩季のツアーに参加するなど幅広い活動をするようになった。どこまで自分を広げられるかチャレンジしているようで、頼もしく見えたものだ。中島美嘉と組んだ「MIKA RANMARU」も面白いユニットだった。こうした多彩な活動の一方、ソロ活動では自身のルーツを見つめ直すようなライブや楽曲制作を続けている。

 JOY-POPSが復活したのは2018年。HARRYとの再会からユニット復活へと進んだ。折しもスライダーズのデビュー35周年だった。コロナ禍、HARRYの肺がん治療で活動が中断したものの、2022年には活動再開。そして2023年には40周年を迎えたスライダーズが復活し、日本武道館公演と全国ツアーを行った。武道館での公平は、以前と変わらぬ緊張感を持ちながらHARRYたちと息の合った演奏をしていたが、本当に嬉しそうだった。長年離れていた実家に戻ったようなものか。もし帰ることがもうなかったとしても、その家で暮らした時間は自分の誇りになる。

 公平はいわゆるセッションギタリストではないが、彼の色が求められるところでは、言うまでもなく抜群の発色を見せる。彼がペイントしたギターのように世界にひとつだけの色彩とデザインだ。しなやかに手首を返しながらピックで弦を弾く彼の指先はギターの一部のようだ。その音に宿る痛々しいほどピュアな音楽への愛は、初めて彼のギターを聴いた時から変わっていないと思う。

 蘭丸のステージネームで公平は知られているが、HARRYをはじめ、メンバーは彼を公平と呼ぶ。仲井戸“CHABO”麗市と組んだユニット名は麗蘭で、CHABOもステージで「蘭丸」と紹介することもあるものの、普段は彼を“公平”と呼んでいる。私もスライダーズ時代は蘭丸と呼んでいたけれど、いつの間にか公平と呼ぶようになった。もちろん、会話する時は呼び捨てではない。

※1・2:『ストリート・スライダース 聖者のラプソディー』(ロッキング・オン)
※3:『PATi PATi』1991年3月号
※4:『村越弘明 詩・写真集 真夜中の太陽』(KADOKAWA)
※5・6:『MUSIC MAGAZINE』2016年11月号
※7:『UV vol.13』(Sony magazines annex)

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