柴田 淳「音楽を選んで正解だった」 救急救命士取得を経て“思うままの私”を表現するまで
シンガーソングライターの柴田 淳が4年ぶりとなるオリジナルフルアルバム『901号室のおばけ』をリリースした。音楽プロデューサーに武部聡志を迎えて制作された今作は、豊かなストリングスの音色と共にゆったりと美しいメロディを歌い上げる愛のバラード「綺麗なままで」や、愛されるはずだった人形の無惨な最期を儚げな声で歌う「◯◯ちゃん」、冒頭1分間に及ぶアカペラに息を呑む「短くて長い詩」など、全10曲。柴田 淳の唯一無二の音楽世界がさらに深まり、じっくりと堪能できる1枚に仕上がっている。
音楽活動以外では今年の3月に国家試験に合格し、救急救命士になったことも話題に。今回のインタビューでは新作の制作エピソードはもちろん、3年間の専門学校での学びや、それを経て再び楽曲制作を始めたときの変化なども語ってもらった。これまでとは異なる経験を重ねたことで、より磨きがかかったソングライティングとボーカルの秘密に迫る。(上野三樹)
“異世界での経験”を通して「柴田 淳を客観的に見れるようになった」
――取材を行っている本日、10月31日は23年前にメジャーデビューされた記念日ですが、今年はどんな気持ちでこの日を迎えましたか。
柴田 淳(以下、柴田):毎年そんなにデビュー記念日という節目を自分で騒ぎ立てるほうじゃないんですけど、今年はスタッフも一新したこともあり、周りも誰も騒いでない感じがしますね(笑)。なのでYouTube配信でもしようかなと自分で企画して、そのときにケーキでも食べようかなと。さっき近所のケーキ屋さんで3つだけ買ってきました。
――20年を越えて活動を続けられていますが、今回のアルバム『901号室のおばけ』からもご自身の音楽への情熱をすごく感じました。昔から「音楽は生きる支えであり、生きる理由」であると語っていらっしゃいましたが、今も変わらずですか。
柴田:そうですね。「音楽は生きる支えであり、生きる理由」、よくそんな風に言ってましたよね。だからこそ私にとって音楽は仕事というより、もう私自身になってしまっていて。みんなにとっては“柴田 淳は歌手という職業をやっている”感覚で見てると思うんですけど、私にとって歌手であることは仕事じゃなくて私自身なので、「私もいつか就職したい」みたいなノリなんですよ。だから、救急救命士の資格を取りましたが、音楽をやめて救命士になりたいとは全く思ってなくて。海外の救命士は特に、ボランティア精神でされている方がほとんどで、本職を持っていて合間にボランティアで救命士をする。そういうスタンスで私もいつかできたらいいなと思っているので、音楽家・柴田 淳を辞めてそれ1本になるのは想像がつかないというか。
――「高校時代に刑事か救急救命士か看護師という道も考えていたけど、音楽を選んだ」と前にお話しされていましたね。
柴田:そうです。そのときに結局、歌手を選んだんですが、こうして今になって時間を作り、救命士になる夢を取り戻すためのタイムスリップをして、また元の世界に戻ってきたんですね。そしたらやっぱり私、音楽を選んで正解だったとすごく思ったんです。音楽だけをやっているときは、ただ好きなことをしていて、どこか無職のような感覚がずっと続いてて、「やっぱり救急救命士ってかっこいいな」なんて思っていましたし、親にも10周年ライブのときに「あなたいつになったら就職するの」なんて言われるくらい認められていなかったんですけど。その一方で、音楽は私自身だからこその辛さがありました。セルフプロデュースで制作をしていると、アレンジャーさんが作ってきたものに対して「それはちょっと方向性が違う」と思うと、それを言わなきゃいけないストレスがあったり。キャリアのある人であればあるほど、私の意見を伝えることに勇気がいって、結局我慢してしまったり、そもそも言える関係性じゃなかったりして、それを飲まなきゃいけない苦しさがありました。だから、レコーディングが終わった後はいつも辛くてギャン泣きしていたんです。
――音楽は私自身、だからこそ他者に自分の意見を捻じ曲げられたらすごく傷ついてきたと。
柴田:そうですね。音楽と私自身がぴったり重なりすぎちゃっていた感覚があったので、そうではないこの4年間を過ごせたおかげで、柴田 淳をちょっと客観的に見ることができるようになったのかもしれないです。
――今回のアルバムは4年ぶりで、その間に救急救命士の資格を取得されました。このタイミングで救急救命士になろうと思ったのはどういうきっかけだったんですか。
柴田:コロナ禍に突入しようとする2019年の終わりから2020年にかけて、私自身が音楽制作において、もう何も出ないっていうところまで絞りきっちゃったなという感覚になり、もうどこに行ったらいいのかもわからない迷子になっていました。それ以前のアルバム3枚くらいは私の中で暗黒時代で、制作現場も良い環境じゃなかったし、それは作品にも影響がありました。そんなところからコロナ禍に突入したので、音楽活動をしたくてもできないのを言い訳に、自分を取り戻そうと2021年に思い切って専門学校に入りました。年齢的にも勉強したい衝動に駆られていたこともあり、高校生のときになりたかったものを思い出して救急救命士になろうと。専門学校は3年制なんですが、3年目は特に救命救急センターでの病院実習があって、当直を繰り返す日々が辛かったです。でもそんな日々の中でお医者さんやナースの方たちなどこれまで出会わなかったタイプの方たちにたくさん出会いましたし、異世界ですごく貴重な経験をしたなと思います。
「武部(聡志)さんのプロデュースで間違いないなと確信した」
――そうして音楽以外の時間を多く過ごした上での、今回のアルバム制作だったと思いますが、何かご自分の中で変わった部分はありましたか。
柴田:専門学校でのハードな生活を3年間送って、音楽活動に戻ってきたときに右も左もわからないどころか、「柴田 淳って何だっけ?」っていうところから始まりました。私自身がファンと同じような目線で柴田 淳を見ているというのが新鮮で。学校生活から開放されて初めて「私、歌手だったんだ!?」って自覚して、今までの生活がなんて幸せだったんだろうと思い知りました。高校生だった私がいきなりこの世界にワープしてきちゃった感じなんですね。現場はスタッフも一新されて、制作をどうしていこうかと思っていたときに、以前、武部聡志さんのラジオにゲストで呼ばれて「いつかプロデュースさせてください」と言ってくださったことを思い出して。ダメ元でオファーしてみたら快諾してくださったんです。
――そこで今回は音楽プロデューサーに武部さんを迎えての制作になったんですね。
柴田:“今までの柴田 淳”で武部さんとタッグを組んでいたら、きっとぶつかり合っていたと思うんですけど、一旦違う世界で休んで再スタートを切った私だからこそ、ご一緒できたんだと思います。武部さんも「再スタートの最初の一歩をプロデュースできて嬉しい」と言ってくださいました。
――1曲1曲、本当に濃厚な柴田さんの歌の世界をじっくり堪能できる1枚だと思います。
柴田:ありがとうございます。セルフプロデュースのときには、アルバムの中でロックな曲、バラード、ポップな曲、弾き語りの曲……などの方向性を自分で決めて曲作りをしていくんですけど。今回は武部さんのプロデュースで、そういう骨組みもないまま闇雲に曲を作っていったんで、そういう難しさはありましたね。深夜まで1人でスタジオに篭る日々の中で20〜30曲できて、その中から武部さんに選んでいただいた曲をアレンジしてもらってレコーディングしていきました。
――武部さんとはどんなやり取りが印象に残っていますか。
柴田:スタジオに入って、ピアノ弾き語りで武部さんに曲を披露するんです。私は「ラララ〜」で歌いながら、武部さんにコードを書き取ってもらうんです。そのあとで、武部さんが清書をするようにその曲を弾いてくれるんですが、それがまるで別の曲のようで、さらにイントロまでついてでき上がっちゃうんですよ。「もうこれでいいじゃん!」っていうくらいの状態で。最初にそのやり取りをしたときに「武部さんのプロデュースで絶対に間違いないな」と確信しました。私1人で曲作りをしていると、頭の中に鳴っているコードを上手く弾けなかったり、何か音が足りないなと感じたり、違う音が鳴っているなと思うこともあったんですが、武部さんは私が感じていることを、言ってもないのに弾いて欲しい音をくれるんです。自分が想像していた以上の良いものを弾いてくれることに感動しちゃいましたね。