JASRAC 弦哲也会長×ASCAP ポール・ウィリアムス会長対談 両団体に根づくクリエイターファーストの精神
日米を代表する音楽著作権管理団体のトップによる対談が実現した。日本国内で音楽の著作権を管理する「一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)」の会長は、石川さゆり「天城越え」や石原裕次郎「北の旅人」などの作曲者として知られる弦哲也。そして、米国の著作権管理団体「米国作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)」(※1)の会長を務めているのは、Carpenters(カーペンターズ)「愛のプレリュード」や「愛は夢の中に」、1976年に全米チャート1位を獲得した映画『スター誕生』の「スター誕生の愛のテーマ」などの作詞で知られる、ポール・ウィリアムスだ。両団体には、「音楽クリエイターが創設した団体」であり「音楽クリエイターが会長を務めている」という共通点があることをご存知だろうか。
JASRACやASCAPのように世界中に存在する音楽著作権管理団体は、それぞれパートナーシップを結び、互いに管理楽曲を管理し合うことで、国を超えた著作物の利用とクリエイターへの報酬の還元を円滑にしている。また、JASRACとASCAPは「著作権協会国際連合(CISAC)」(※2)の理事国として、国際的な連携にも積極的だ。
今回、ウィリアムス会長の来日タイミングに合わせて弦会長との対談をセッティング。両者のヒット曲のエピソードを交えながらのトークからは、両団体に根づくクリエイターファーストの精神を感じ取ることができる。(榑林史章)
曲を聴けば通じ合うことができる 音楽クリエイターとしての共鳴
――まず、弦会長から、ウィリアムス会長の印象など教えてください。
弦哲也(以下、弦):ポールさんの手掛けた歌詞や曲はたくさん知っていますが、特に作曲家のロジャー・ニコルズ氏とのタッグでカーペンターズに贈った歌詞とメロディは胸に響きました。
ポール・ウィリアムス(以下、ポール):ありがとうございます。私も弦さんの楽曲をいくつか聴かせていただき、同じような印象を持ちました。残念ながら日本語の意味まではわかりませんでしたが、弦さんの楽曲を聴いて自然と涙がこぼれてきました。それだけ心が動いたということですし、どんな楽曲であるかは心でわかるものなのです。力強さ、優雅さ、エレガントさ、同時にリアルなものがある。そんな音楽を作られる弦さんとこういう機会をいただけたこと、同じクリエイターとして、それぞれの国で著作権保護に関わる仕事をしていることは、とても光栄に思います。
弦:ありがとうございます。ポールさんはシンガーソングライターでもあるので、1人で楽曲を全て作ることができますよね。それは本当にすごいことだと思います。演歌の世界の楽曲制作は分業制の場合が多く、まずは作詞家が歌詞を書き、作曲家がそれを受け取って曲を書いて、最終的にできあがったものをボーカリストに渡す。1つの楽曲ができるまでに、少なくとも3人のハートが込められていて、その三者の思いが一致した時に初めてベストな作品になると思っています。
ポール:私自身、ベストなものが生まれる時というのは、音楽を創造する時のパッションや、アマチュアの時に楽曲にぶつけていたような素直な思い、そういったものがある時だと思いますね。私が作曲を始めたばかりの頃は何もわからず、洗練されてもいなかったけれど、自分が正直に表現した思いが、同じ気持ちを持った人と心をつないでくれました。いい楽曲というのは、そうやって生まれるものじゃないかと思います。弦さんの楽曲を聴くだけで、あなたがどんな思いを持っているのか知ることができました。また私の胸の内にあるものも、私の楽曲を聴いてわかっていただけていると思います。言葉を交わさなくても通じ合える、それはもう家族のような関係なのではないかと思います。
弦:実際にポールさんはずいぶん昔からファミリーというか、私のお兄さんであるかのような、フランクな雰囲気を持っていらして、とても素晴らしい方だなと思いました。
ポール:ありがとうございます。私たちの関係を、私が作詞した言葉から引用すると、「初対面の旧友に向けて、まだ言葉はない(There's not a word yet, for old friends who've just met./「I'm Going to Go Back There Someday」より)」。これって、言い得て妙だと思いませんか(笑)?
“古賀メロディ”への憧れ、俳優業からの転機……音楽家を志したきっかけ
――曲作りの話も出ましたが、そもそもおふたりはどういう経緯で音楽家の道を志されたのでしょうか。
弦:私は1947年生まれで、戦争が終わってすぐの年に生まれました。子どもの頃、最初に耳にした音楽が、古賀政男さんという作曲家が作った曲、いわゆる「古賀メロディ」でした。古賀さんの曲のイントロにはギターが必ず使われていて、それを聴いてギターを好きになり、ギターを弾きながら歌える曲をいつか作りたいと思って、この世界に入りました。私の名前、弦哲也の「弦」はギターの弦から来ていて、それを徹夜で考えたことからモジって「哲也」とつけたわけです(笑)。
ポール:ウィットに富んでいますね(笑)。私たちがやっていることは、通訳や翻訳のようなものなのではないかと思っています。というのは、座ってギターを持つことで沸いてくるいろんな感情があって、昔出会った人、昔愛した人、愛したけれど失ってしまった人、初めて自分の子どもを抱いた時の気持ちなど、駆け出しの頃は思いもしなかったことが、どんどん自然にあふれてきて、それが身体を通して、世界中に届く音や言葉になっていくのだと思います。弦さんは、まさしくそういうものが名前になっているのですね。
――ウィリアムス会長がアーティストを志したきっかけは、何だったのですか?
ポール:俳優業を失業したことです(笑)。実は私が13歳の時に、父親を自動車事故で亡くしまして。それまでは歌が好きでたくさん歌っていたのですが、父を亡くしてからは歌いたくなくなって、違うことをやりたいと思って俳優になりました。当時を振り返ると、おそらく自分ではない他のキャラクターになって声を出したかったのではないかと思います。ただ俳優としてはなかなか上手くいかず、主役級にはなれませんでした。かといって他の仕事をするのも難しく、食べていくのさえ困難だった時期もありました。そんな時、ふと手にしたのがギターでした。当時はマーロン・ブランドやロバート・レッドフォードなどの映画に出ていましたが、そこでもらえるのは端役ばかりで、空き時間がたっぷりあったので、その場で適当な楽曲を作って歌っていたんです。その時は『逃亡地帯』という映画で、犯罪者役であるロバート・レッドフォードがジャンクヤードに隠れていて、私はそこに火を付けて彼をあぶり出す役でした。それでロバート・レッドフォードの役名が「ババー」だったので、“おいババー、早く出てこないと火を付けちゃうぞ~”と、適当に歌っていたんです。そうしたら、たまたま通りかかった俳優のロバート・デュヴァルがその楽曲をいたく気に入って、「ちょっと来い」と私を連れて監督に直談判してくれて、映画の中でその歌が使われることになったんです。それは一つのギフトだったんじゃないかなと思います。そうして私は、役者から音楽家になりました。
――そういう縁や、運というものは本当にあるんですね。
弦:何も持っていないということは、それこそが贈り物です。ないから手に入れたいと思うし、一つ扉が閉ざされていてもまた別の扉を開けようとする。その繰り返しが、今日に結びついている。今私がJASRACの会長であることも、一つの贈り物だったと思いますね。