中村佳穂に備わった“ポップな魅力”とは何なのか Mac新CMにも起用された「アイアム主人公」から読み解く

 今年の2月25日に書籍化された『ポップ・ミュージックを語る10の視点』(大和田俊之編著、アルテスパブリッシング/2020年)における冨田ラボの項「“録音された音楽を聴くことの意味”」には、以上のようなポップさについて非常に示唆的な記述がある。

(前略)「ポップである」ことと「規則性」は非常に密接な関係にあります。ループ・ミュージックを別にすれば、表面的には規則性を感じさせず、しかし規則的な部分と自然発生的な部分のバランスがうまくとれたものが良いポップスと言えるからです。(中略)シンガーのキャラクターは印象に残っても「メロディは残らない」。この言葉は「ポップスとしては致命的」と同義で使われてきた言葉ですが、じつは僕自身、いまは一概にそうとも思わないんですよね。(中略)もちろん、シンガーも曲調もメロディも、すべてを印象づけるに越したことはありませんが、メロディを偏重するあまり、ほかの音楽要素に宿る生命力を犠牲にする危険性があります。(中略)聴取環境の変化、録音、再生機器の進歩もあいまって、メロディと同等、またはそれ以上に音色やビートを好みの指標とするリスナーも増えているわけです。メロディの詳細よりも、曲のムードや躍動感、トラックの質感やシンガーの声質で聴きたい楽曲が選ばれるわけです。そういったこともあって、僕は最近、メロディにフォーカスしすぎる制作には違和感を感じます。歌周辺だけでなく、以前にも増して音楽全体でのストーリーや昂揚感の演出が重要になっている。そこに注力しなければ、魅力的な音楽にはならないと思います。(先掲著p111-112から引用)

 「アイアム主人公」のスタジオ音源を聴くと、そうやってパッケージされたバージョンの時点ですでに譜割や音程感が曖昧な箇所が多く、そもそも原曲自体が自在に変化することを許容するアレンジになっていることがわかる。ラップと語りと謡曲の間にあるような、こぶしとも言い切れない独特で多文脈の歌いまわしや、跳ね・切りのリズムニュアンスの豊かさなど、中村佳穂バンド独特の演奏表現自体が楽曲の構造を決定している部分が多い。これは上記引用文のような「音楽全体でのストーリー」を非常に良い形で体現しているし、明確に記譜するのが難しく聴き手の意識を音程に留まらせにくいボーカルラインは、声のキャラクターそのものをより印象に残りやすくしている。このように、ある種デッサン的な原曲のアレンジを土台に変化していくライブパフォーマンスは、上記引用文の「表面的には規則性を感じさせず、しかし規則的な部分と自然発生的な部分のバランスがうまくとれたものが良いポップス」にそのまま当てはまるし、そうした可能性が示唆されているからこそ生まれている魅力も多いのではないだろうか。「アイアム主人公」の〈「この曲のどこが正しくどこが見当違いで…?」〉という歌詞は以上のような在り方を一言で表しているように思う。

 なお、上記引用文はアル・ジャロウ「Rainbow in Your Eyes」(1976年)の楽曲解説に関連して語られたものだが、中村佳穂自身もアル・ジャロウからは非常に大きな影響を受けたとのことで、「Take Five」の動画は何百回も観たと言っている。(Mikikiインタビューなど様々な記事で言及。)喋りからシームレスに歌唱に入っていくアル・ジャロウのパフォーマンスは、中村自身の歌メロ付きMCにも通じるし、卓越した歌唱技術はもちろん即興性の面でも少なからず参考にしているのではないだろうか。様々なことが根っこの部分で繋がっているようで興味深い。

Al Jarreau 1976 -Take Five

 以上、Mac BookアニメーションCMへの楽曲起用に関連して中村佳穂の音楽の魅力について述べてきた。そもそも「アイアム主人公」というタイトル自体がCMのテーマにうってつけなわけだが、それが選ばれることになった背景には中村佳穂という人物(ミュージシャンという以前に人間として)のポップな魅力があるのではないだろうか。その時々の判断を引き受け活かしていく健全な自己肯定感や良い意味での唯我独尊ぶり、直感と論理を両立する流動的な表現力のすごさは、これからも様々な領域に強くアピールしていくと思われる。リアルタイムで活動を追い続けることができるのがありがたい稀有の存在である。

■s.h.i.
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