“アイドル恋愛禁止”という考え方は、どう変わっていく? Nao☆、古川未鈴の結婚から考える

 もとより、芸能者に対してファンが抱く感情は一様ではなく、またその人物のパフォーマンスや技術に対する支持と、パーソナリティに対する愛着あるいは恋慕とを必ずしも区別できるわけでもない。当該の人物がパートナーをもつことは、ファンが失望する理由にもなるし、逆にそうしたライフスタイルの提示まで含めて支持する理由にもなりうる。そのような受け手の支持や落胆は、スポットを浴びる職業にとっての常である。パートナーの存在を表明することへの忌避や拒否反応もまた、「アイドル」であるか否かを問わず、受け手が芸能者に対して抱く自由な感情のひとつでしかない。

 問題性が顕わになるのは、そのような忌避感情が「恋愛」や「結婚」の規制へと結びつき、明示的なルールのようなものへと転化してゆく段階においてである。それがいつしか組織あるいはジャンル全体を統べる規範として正当化されると、実践者であるアイドル当人たちにかかる抑圧がいかに理不尽なものであったとしても、その規範意識自体を問い直す機会を失してゆく。女性アイドルシーンと「恋愛」とをめぐって2010年代にみられたいくつもの醜悪な事態は、その理不尽な抑圧について省みることを忘れた先にあったものだ。

 それらの光景は、現行アイドルシーンが抱え込む性質と社会一般との乖離を象徴的に示し、アイドルというジャンル全体にネガティブなイメージを刻印するものになった。であればこそ、Nao☆や古川の選択がナチュラルに受容されつつあることは、このジャンルを問い直しアップデートさせるうえでも小さからぬ一歩である。

 もっとも、「結婚すること」や「恋愛すること」こそが望ましい価値観としてあるのではない。重要なのは、アイドルそれぞれが自ら選択したスタイルでキャリアを重ねやすくなってゆくことである。パートナーをもつことももたないことも、パートナーの存在を表明することもしないことも、当人のチョイスである限り等しく尊いことに変わりはない。特に現行アイドルシーンが、各人のパーソナリティまでも含み込んで消費される自己表現のフィールドとしてある以上、どのような生き方をみせてゆくかを本人が決定できることは肝要である。各々がどのようなスタンスでアイドルとしての己を自己呈示していくのか、そしてそれぞれのスタンスがどのように受容されるのかは、その先にあるものだ。

 アイドルと「恋愛」をめぐる喧騒は、このジャンルが内包する規範と世の中とのズレをときに深刻に浮かび上がらせてきた。ただしまた、それらは社会一般がそもそも抱えてきた旧来的な価値意識が尾を引いたものでもある。いわゆる「恋愛禁止」が、実質的には異性間の性的交渉を思わせる事象に対する禁忌としてのみはたらいてきたことは、「恋愛」が規制されること自体のいびつさだけでなく、異性愛こそを「恋愛」の標準的な姿として捉えるような、硬直した発想が無意識に踏襲される現状をも示すものだ。あるいは、パートナーの表明が「結婚」によってこそ説得力をもち、「交際」の場合しばしばスキャンダラスな受容がなされやすくなることは、他者との関係性について婚姻という回路こそがオーソリティとして特権視され、パートナーシップのあり方への理解がいまだ画一的であることも示唆する。

 自由度の高い表現のフィールドであると同時に、社会の旧弊をいびつに映し出してもいるこの土壌のなかで、Nao☆や古川といった実践者たちが自らのスタンスを明らかにしつつキャリアを切り拓こうとする姿は、どのように受容され位置づけられていくのか。2010年代終盤に生じた新たな潮流の予感は、「アイドル」が今日のポップカルチャーとしていかに生きるのかを方向づけるうえで重要な意義をもつ。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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