『零号』インタビュー
ピノキオピー、4thアルバム『零号』で“泥臭さ”を追求 ナゴムや大槻ケンヂからの影響も語る
今年10周年を迎え、カザフスタンのフェス『Star of Asia』のトリを飾るなど、ボカロPという枠組みを大きく超えて活躍するピノキオピーが4thアルバム『零号』を2月27日にリリースした。これまではシニカルな歌詞が特徴的だったが、本作では内省的な部分も盛り込んだ楽曲が目立っている。今回リアルサウンドではピノキオピーにインタビューを行い、自身のルーツやボカロ活動で得た経験や考えを振り返ってもらいつつ、『零号』に込めた思いを聞いた。(編集部)
自分の内から出るものを出した曲が増えた
ーーいつ頃からアルバムとしての構想は生まれたんでしょうか。
ピノキオピー:前のアルバムのリリース後、「ぼくらはみんな意味不明」という曲を作りはじめて、“意味”にフォーカスを当てようと思ったんです。それから“意味”とか“中身”を一貫したテーマにして、2年ぐらい作り続けてきましたね。
ーー“意味”ということにフォーカスした理由、あるいはきっかけは?
ピノキオピー:ネットで活動しているからかもしれないですけど、外側を良くすることは簡単にできると思うんですよ。自分の姿を隠した状態で、想像の余地を与えたうえで。それが大きな広がりになったりはするんですけど、作っている人自身の姿が、もっと伝わったほうが良いんじゃないかって思うようになったんです。外側だけで見せていくっていうよりは、その中にあるものに、もうちょっとフォーカスを当ててやれたら良いなっていう気持ちがあって。作品の向こうには人間がいる。人間がいて、さらにその中にも中身があるっていう部分が伝わったら良いなと。
ーー顔を出さないで、どういう人間であるかも表に出さないで、匿名でやる活動は、テクノなどでも普通にあることだと思うんです。
ピノキオピー:僕自身がそれじゃ物足りなくなったから、中身をどうこうっていうことになったのかもしれないですね。ボーカロイドっていう文化では、ボーカロイドを作っている人に、あんまりフォーカスが当たらないんですよ。
ーーあえてフォーカスする、されるのを避けてることもあるわけですよね?
ピノキオピー:そうです。中身が見えちゃうと嫌だっていうのもわかります。だけど絶対に、そこには人がいる。ボカロシーンの中にはいろんな変なものを作ってる人たちがいて、「この人が作ってるから良いのに!」って思う部分がけっこうあって。そういう人たちの姿がもっと見られたらと思っていたんです。最初の頃、僕はボカロが好きじゃなかったんですよ。アイドル的な感じでボカロに歌わせてた時期はあんまり興味がなくて。でも、アゴアニキさんの「ダブルラリアット」みたいに、泥臭い歌詞を歌わせたり、自身の作家性を出し始める人が現れてから、イメージが変わったんです。ボカロを始めた理由としても、やっぱりそこに人間が感じられたから。だけどシーンとしては、人の存在があまり感じられない。それが利点でもあるんですけど、なんか寂しいなという気持ちもあって。
ーーライブを頻繁にやられるようになって、最近になって顔も出されるようになったのは、その流れなんですか?
ピノキオピー:ボカロに限らず、音楽シーンを見渡したら、顔を隠してる人が増え過ぎちゃって、僕はそこに混じりたくないなと思っちゃったっていうのもあります。
ーー自分の素顔を隠してやることがかっこ悪いことだと思えてきたとか?
ピノキオピー:そうですね。そこは変化しましたね。昔はネットの匿名性ってミステリアスで良いと思ってたんですけど、逆にネットの匿名性に対して不信感が芽生えてきたというのもあります。匿名だからできることもあるんですけど、僕自身は、自分の好きなこととか、思っていること、面白いことを伝えたいほうなので、自分が前に出ていかないのは不誠実なんじゃないかって気持ちにはなりました。
ーーライブをやるようになり、顔も出すようになって、ピノキオピーという素の人間が出ることになった。そうすることによって、作るものは変わってきました?
ピノキオピー:歌詞を書くときの話なんですけど、僕はけっこう俯瞰で、天の視点から世の中の物事について語っていくみたいなやり方が多かったんです。そこに自分がいるようで不在の状態というか。他にやってない手法は何かなって考えたら、自分自身が自分の言葉で何かをするってことだって思って。『零号』制作の終盤になってくると、主観の歌詞を書いていたんですよね。自分の内から出るものをそのまま出した曲が増えたかなと。
ーー当然それは、自分自身と向き合うことにも繋がってくると思うんですけど、その辺の意識は変わってきましたか?
ピノキオピー:ありますね。正直な話、10年間ずっとボカロを使い続けてきて、ぼくがやれる範囲のことは存分にやってきたので、ちょっと息苦しくなってきています(笑)。
ーーなるほど。そういう考え方を進めて行くと、ボカロじゃなくて全部自分の歌でってことになりますね。
ピノキオピー:今作では、ボカロを前面に出しつつ、それを補填する形で僕の声を追加して、エネルギーを足してみたんですけど、一度、自分がメインで歌うプロジェクトもやってみたいなと思っています。ボカロ自体はやりたいし、やめないとは思うんですけど、自分自身が前に出て作ったらどうなるのかを、ぼんやり考えています。
ーー自分が歌うことで、何か変わってくるものってあるんですか?
ピノキオピー:歌詞が変わると思いますね。情報量もそうだし、人が歌いやすいかどうかという技術的な部分もありますし。あと、ボカロというキャラクターに意味を持たせることができなくなるかなって。この『零号』って、半分実験だったりはするんです。自分自身が思ってることを色濃く歌詞に反映させたらどうなるか。今、音楽シーンはボカロ的な鮮烈な歌詞を人が歌っても大丈夫な空気になっている気がするんですよね。前はちょっときつかったと思うんですけど。そういった意味でも、ちょっとチャレンジしたいなぁと思っています。
ーーなるほど。
ピノキオピー:とは言え、僕が前に出なくても曲を発表できるボカロ文化があったからこそ、僕は世に出て来られた。ボーカロイドを通じて音楽を作ったり、絵を描いたり、そういう文化の中で戦えるものが僕の中にあるから、その形は形で、今も面白いとは思うんですけどね。
ーーご自分が表に出てくると、曲の中で語られていることイコール、ピノキオピーそのものであるっていうように、受け手としては受け取りがちだったりもするわけですけれど、それは別に構わない? 同一視されても。
ピノキオピー:僕は構わないですね。曲には僕自身が思っていることがすごく含まれているし、同一視されることでやれるテーマもあるんじゃないかなって思っています。