振付から紐解くJ-POPの現在地 第2回:TAKAHIRO(前編)
欅坂46など手掛ける振付師・ダンサーTAKAHIRO、異端のキャリアとダンス論を語る
J-POPシーンの最前線で活躍する振付師にスポットを当て、そのルーツや振付の矜持をインタビューで紐解いていく本連載。第2回となる今回は、欅坂46の多くの曲を手がけるダンスアーティスト・TAKAHIROを取材した。18歳でダンスを始め、2004年に23歳で単身渡米した彼は、全米放送のコンテスト番組『Showtime At The Apollo』にてマイケル・ジャクソンを超える歴代最多の9大会連続優勝を打ち立て、世界にその才能を認められた。2009年にはマドンナのワールドツアー専属ダンサーとして活動、Newsweek誌で「世界が尊敬する日本人100」に選出、ストリートダンサーとして初めて『情熱大陸』『徹子の部屋』に出演するなど、輝かしい功績を挙げれば暇がない。
世界で成功を収めたTAKAHIROが心に抱えていたコンプレックスとは? 欅坂46の振付がよりトリッキーに進化している理由は? TAKAHIRO自身のライフストーリーと、最近の活動への思いを中心に話を聞いた。(鳴田麻未)
■連載「振付から紐解くJ-POPの現在地」インデックス
第1回:s**tkingz
「観客が自分1人だけでも最高だった」
――TAKAHIROさんがダンスを始めたのは18歳とのことで。きっかけはなんでしたか?
TAKAHIRO:テレビで風見しんごさんの「涙のtake a chance」のパフォーマンス映像を見て、カッコよすぎて衝撃を受けました。ロボットのように不思議な動きで、宙を舞って、背中でくるくる回る、同じ人間なのにこんなに体で表現できるんだ! と感動しまして。そのビデオを毎日毎日見ているうちに、僕もマネしてみたいと思ったんです。戦隊ヒーローに憧れてる子みたいな気持ちで、ひたすら同じ動きを何十回、何百回と練習していました。
――新しい1人遊びを見つけたような感覚だったんでしょうか。
TAKAHIRO:そうなんです。人に見せるためではなく。僕はまずは“びっくりする形”を追い求めてました。人知を超えた不思議な動き。友達が貸してくれたマイケル・ジャクソンのビデオを見て、足で滑ってるとか体が傾いてるってことに「うわすごい!」と思ったり。それではじめに突き詰めたのが、ウインドミルでした。
――ウインドミルを習得するには1年ともそれ以上とも言われてますよね。
TAKAHIRO:最初にウインドミルを見た時は、どう考えても自分には無理だと思いました。だけど、いつかできるかもしれない、できたら僕は何か変わるかもしれないと思って1年ぐらいずっと練習してたら、ある日できるようになった。その時の感動が忘れられないです。そこからますますダンスが好きになりました。もともと自分は体を動かすのが得意じゃなかったし、運動神経も普通。勉強に厳しい進学校にいて、ダンス部にも入っていませんでした。
――今では考えられませんが、そうなんですか。
TAKAHIRO:そのあと高校を卒業して大学でダンスサークルに入ろうと思ったけど、その大学にダンスサークルがありませんでした。落ち込んでトボトボ帰ろうとしたら体育館の隅で練習している人たちを見つけたんです。で、勇気を出して「僕も練習に入れてください」と言いました。それまでの自分は、人に対して自主的にアクションを起こすという経験が皆無で。いつも物事を統計的に考え、安全な道を選ぶタイプだったんですね。だけどダンスだけはどうしてもやりたかった。体育館の扉を開ける時が、人生の大きなターニングポイントでした。
――本当に心の扉を開けるようなことだったんですね。
TAKAHIRO:ダンスが初めて自我を芽生えさせました。学校に行き家に帰り、ひたすらラジオを聞いて空想の世界にふけるという少年だったんですけど、空想の世界を現実として体で見せる場を得たんです。そこに新しく「練習場」が入りました。
――18年で頭の中に溜めてきた空想の世界もアウトプットすることができたんですか?
TAKAHIRO:小さい頃好きだったポンキッキの「ほえろ! マンモスくん」とか、好きなゲームの曲、ラジオでよく聴いていた「電撃大賞 クリス・クロス」のテーマ曲で踊ってみたりしました。他の人が見てどうかっていうより僕の小さな世界。観客が自分1人だけでも最高だったんです。
――ダンスにのめり込んで世界が変わったのなら、そのタイミングで自分の将来像も変わったんでしょうか?
TAKAHIRO:正直、ダンスで何かしようというふうに当時は思っていませんでした。周りから期待されることは少なかったし、自己評価も低かった。「今、自分の意志で自分の好きなことをやってる」っていうだけで十分最高に楽しかったんです。
――振り返ると、18歳というのも遅めではあるし、ウインドミルにハマったからといってブレイクのレッスンに通うこともなかった。ダンサー的によくある順路ではないんですね。
TAKAHIRO:そうですね。アメリカにもダンススクールに通ったことがないまま行きました。
――その習得の仕方は、TAKAHIROさんのダンススタイルにそのまま反映されている気がします。ジャンルにとらわれない独創的な動きという。
TAKAHIRO:自分が初めて見た“憧れの絵”を求めてるんだと思うんです。見た時に「うわ何これ! こんな見たことないふうに僕もやってみたい!」って思うような。
「君はアポロシアターをバカにしてるのか?」
――渡米されてからは、2005年に「アマチュアナイト」のダンス部門1位を獲得、2006年に『Showtime At The Apollo』に出演して殿堂入り、マドンナのワールドツアーダンサーになりアルバム『Celebration』の日本プロモーションの振付・演出を担当する……など、本当に輝かしい経歴ですが、ご自身の中でターニングポイントとなった出来事は?
TAKAHIRO:『Showtime At The Apollo』というアポロシアターでのコンテスト番組で、僕は優勝して記録を作って大きなチャンスをつかむんですけど。そのコンテストに出るための最初のオーディションがターニングポイントです。
――その時は何があったんでしょうか。
TAKAHIRO:オーディションでは2分半のパフォーマンスを披露して、審査員に認められると大会に出られるんです。僕はその時「こんな曲が好きで、こんな人間です」という自分の集大成を見せました。審査員の人は身を乗り出して見ていた。作品を披露したあと呼ばれて「君はアポロシアターをバカにしてるのか?」と怒られたんです。「ここはヒップホップの聖地だ。お客さんは全員黒人でヒップホップエンターテインメントを求めてる人なんだ。君がやってるのは全然ヒップホップじゃないけど、君は誰に何を見せてるの?」って。その時、雷が落ちたようでした。顔が真っ赤になったのを覚えてます。
なぜかというと、今まで“自分が自分が”でやってきたけど、ショーは観客と演者のキャッチボールで成り立っている世界。僕はなんて独りよがりな恥ずかしいものを見せてしまったんだと。当たり前の、すごく大切なことを思い知らされたんです。
――普通ならそこで不合格ですが、結果オーディションに受かったから大会に出たんですよね?
TAKAHIRO:「終わったな」と思ったら、審査員の1人のキャシーという方が「ちょっと待って。彼、面白いじゃない。あのスタイルは初めて見たわ」って止めたんです。「タカヒロくん、君のスタイルはユニークだから生かしたほうがいいよ。持ち味はそのままで、このアポロシアターというヒップホップの劇場にリスペクトが感じられるように作品を作り変えることができるなら、大会に出してあげてもいい。それを約束できる?」と言われて。その一言に救われました。
――逆に成長のチャンスになったんですね。
TAKAHIRO:それから大会本番まで、黒人街に住んで、黒人の人の生活やヒップホップについて勉強しました。結論から言うと、自分はヒップホップじゃないなって気付きました。ヒップホップって、僕はファッションだと思ってた。みんなダンスがうまくて、みんな「Yo!」って言ってるかと思ってたけど、実際ハーレムに住んでみるとヒップホップはただのファッションじゃなくて文化だった。歴史背景があって、貧困だったり迫害だったりプライドだったり、その中で生まれてた。だから、それを人生で体験していない僕が急にヒップホップのノリをやっても、ただのマネごとになって全然リアルじゃないぞ、と。
――なるほど。
TAKAHIRO:そこで、キャシーさんが言った「あなたのスタイルは生かしつつ、ヒップホップへの尊敬を込めて」というのをもう一度考えたんです。僕は僕自分自身のスタイルをそのままに、ヒップホップの文化を受け入れたくて学びたい気持ちをオーディエンスの皆さんに伝えるんだ!と思って。それで作り変えた作品の内容はこうです。
最初は当時一番流行ってたヒップホップの曲をかけました。そこに空手の型を使った振りを入れて“日本人ならでは”を見せました。途中でマイケル・ジャクソンへのリスペクトでムーンウォークを入れたり、誰でもびっくり楽しめるパントマイムの動きをしました。「なかなか面白いな」って思わせたところで、世界中が大好きな日本のコンテンツ「スーパーマリオ」の曲でおどけたロボットダンスをする。そして最後のパートは自分の世界観を前面に出しました。「僕はこういうアイデンティティーを持ってる人間だ、そしてあなたのアイデンティティーをもっと知りたい!」それをこのアポロシアターでヒップホップの人に伝えたかったし、一緒に何か感じたかったんだっていうことを表現しました。