欅坂46など手掛ける振付師・ダンサーTAKAHIRO、異端のキャリアとダンス論を語る

TAKAHIROが歩む異端人生

「生きることは踊ることだった」

――現地の潮流、日本人という出自、ヒップホップ文化へのリスペクト、そして自分らしさをミックスさせたんですね。その作品でTAKAHIROさんは『Showtime At The Apollo』にて初優勝し、その後、番組史上初の9大会連続優勝&殿堂入りという偉業を成し遂げました。

TAKAHIRO:優勝したら“ヒップホップエンターテインメントのチャンピオン”という看板を急に背負うことになって、ここでまたいくつかの悩みを持つことになります。まずアーティストのダンサーをやってくれという仕事が入ってきました。でもその振り写しの時、周りのダンサーはサクサクとステップを理解してついていく中、僕は全然できなかったんです。振付師も「What happened champion?(どうしたチャンピオン?)」って言ってる。僕はマイスタイルのスペシャリストとしては力を磨いてきたけど、ジェネラリストとしてみんなと共有できる技術や知識をまったく持っていなかったんですね。それで「君のすごさはわかるけど、みんなと同じことができないと仕事はできない」ってことでクビになっちゃったりもしたんです。

――群衆の中のいちダンサーとしては……。

TAKAHIRO:ダメだった。これではプロの世界で戦えないと気付いて、ダンスの学校に入って、初めてダンスを“学ぶ”ことにしました。3年半ぐらい毎日通って、バレエ、ジャズ、コンテポラリー、ハウスなどダンサーとして生きることに必要な基礎を詰めました。当時の自分は、チャンピオンになったけど看板に能力が見合ってないっていうコンプレックスがありました。『Showtime At The Apollo』で優勝したあとに、そういった学びの時間が続きました。

――ダンスのプロといってもいろいろな形で食べている人がいる、ということは実感されていたと思いますが、自分はどういうプロフェッショナルの突き詰め方をしていこうと当時は思ってましたか?

TAKAHIRO:もちろん、有名アーティストのライブに出られたらいいなとか、ダンスカンパニーに入って主役をやってみたいっていう憧れも当時はありました。ただそれ以上に「みんなが期待する以上の自分になりたい」と思っていました。ここまでコンテストで勝ってきたことは、うれしいけどつらさもあったから。世界各地から夢を持ってる人たちが集まっていました。コンテストに勝ち進むということは、その人たちの頭を踏んづけて僕は毎回(優勝台に)登ってることになるわけです。目をつむると、負けた人が楽屋裏で泣いてるところとか、僕の肩をバンと叩いて「大きくなれよ」って言ってくれたことが、今も思い起こされるんです。その人たちがいつか「俺はTAKAHIROっていうすげーヤツと戦ったんだ」って自慢できるような人にならないとダメだと思って。

――ほんとに控えめで優しい心の持ち主ですね。

TAKAHIRO:それだけ当時自分の中で背負った看板は重かったんです。だって今までの自己設定は、レッスンだったら最後列の端っこにいるようなキャラなんですよ。それがなぜか大勢の前に出てしまった。アメリカに友達がいたわけじゃないし、英語も最初は一言もしゃべれなかったし、ダンスだけが、自分が他の人から存在を感じてもらえるツールだった。だから生きることは踊ることだったので、必死にその場所で生きていました。

――約10年ニューヨークに住み、2015年に完全帰国したTAKAHIROさん。本場のショービズの世界を経験した上で戻ってきた日本のダンスシーンはどういうふうに映りました?

TAKAHIRO:日本のほうが専門的だなと思いました。ポップだったら超強いポッパーがいて、ブレイクだったらブレイクの有名な人がいて、専門分野にすごく強いんだなって。アメリカってオールジャンルの人が多いんです。あと、ダンスをやる子供の数が増えててびっくりしました。

(撮影=稲垣謙一)

後編へ続く】

■鳴田麻未
1990年東京都生まれ。ライター、編集者。2009年に都立工芸高校グラフィックアーツ科を卒業。同年夏から2016年まで7年半にわたって音楽ニュースサイト「音楽ナタリー」編集記者として、ニュース記事執筆、特集制作、企画、営業を行う。2017年1月より独立。Twitter:@m_ami_

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