矢野利裕の『ジャニーズ批評』
SMAP解散発表に寄せてーー矢野利裕が緊急寄稿「すぐれてSMAP的なものであることを願う」
SMAPが今年限りで解散するという。インサイダーの情報があるわけでもないので、年始からここまで、一連の騒動の内幕は知るよしもない。『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」』(垣内出版)という書籍を刊行し、緊急エールを送った直後である。とても驚いた。
まずはなにより、さびしさを感じる。いまもなお、高いクオリティの楽曲を発表し続けるSMAPの、その新曲が、あの歌声が、聴けなくなるのかと思うと、それはとてもさびしいし、悲しい。加えて、彼らのダンスやトーク、その他あらゆる5人のやりとりが見られないのかと思うと、うむ、やはりさびしい。当たりまえに日常を彩っていたものが、不意に失われてしまったようだ。これは、多くのファンが少なからず同じ気持ちだろう。いや、おそらく僕以上にSMAPの表現に魅了され、元気づけられていた人たちがいるはずで、その人たちの心痛は察するにあまりある。
一方で僕は、例の謝罪会見以来、それなりの葛藤を抱えつつも、ことあるごとに「SMAPは解散・独立すべきではないか」と言い続けてきた。それは、SMAPがジャニーズに、ひいてはアイドルに、なにより自由と解放の気分をもたらした存在だと思っているからである。『SMAPは終わらない』という著作の前半部では、ゆたかな楽曲とダンスを披露するSMAPが、いかに自由で解放的な存在かということを、心を込めて論じたつもりだ。SMAPが体現する自由と解放の気分に魅了されていたからこそ、無理矢理存続させられているようなSMAPに対しては、「解散・独立すべきではないか」と言うべきだと思った。各メンバーがどのようなことを思っているのかを知ることはできないが、もし自由で解放的に振る舞うことができない事態に陥っているのだとすれば、形式的なかたちでSMAPが存続していたとしても、実質的にはSMAPらしさはすでに失われている。というか、あの一件以来、いくらSMAPを観たり聴いたりしても、「裏ではどうなっているのだろう」という勘繰りが拭いがたく存在してしまっている。SMAP存続の結果がそんな姿なのであればいっそ解散・独立したほうがいい、というのが、僕の主張だった。いや、なにもかもすっきりと解決したうえでの存続というのが、いちばん良いに決まっているのだが。
強烈なさびしさを感じつつも、その考えは現在でも変わっていない。したがって、僕の言いたいことも基本的に変わらない。『SMAPは終わらない』では、次のように書いた。
「中居に限らずSMAPにいま必要なものは、音楽であり歌だ。さらに言えば、踊りであり笑いだ。すなわち、あらゆる〈芸能〉の振る舞いだ。日常から解放された身体の動きだ。個人的・社会的な困難に直面したときこそ、僕たちは〈芸能〉の振る舞いを必要とする。それは、誰にとっても変わらない。「視聴者にとっても、僕にとっても」だ。だからいま、国民的アイドルであるSMAPに必要なことは、〈SMAP的身体〉を取り戻すことである。〈SMAP的身体〉を舞台のうえで披露することである。それは、グループとしてのSMAPが存続することと必ずしも同義ではないし、もちろん、形式的な謝罪を述べることではありえない。中居が、木村が、稲垣が、草彅が、香取が、それぞれのしかたで、自由と解放の気分を体現することである。」
悲壮感の溢れるメンバーのコメントも報じられている。しかし、そんな悲しい言葉よりも、なにより各人の自由と解放感に満ちた〈芸能〉の振る舞いに触れたい。それは、解散のさびしさをすみに追いやるものだと信じている。「解散・独立すべきではないか」と言っていたのは、なによりSMAPの〈芸能‐人〉としてのすぐれた振る舞いを信頼していたからでもある。ようするに、それぞれがこれまでとは異なるステージで活躍することを、心から願っている。それはまさに、オートレーサーに転身した森くんのように。