AKB、SKE、NMB、HKT、乃木坂……ドキュメンタリー映画が迫った各グループの「奥行き」

 とはいえ、ドキュメンタリーとグループの色調とはイコールではない。SKE48や乃木坂46の作品のカラーがある程度、そのグループのスタンスから導き出されたものであるにせよ、ドキュメンタリーは常に、作り手の世界観とそれに基づく意図的なフレームの切り方によって成型される。それを対照的な形で示したのが、2016年1月に入って公開された二本のドキュメンタリー『尾崎支配人が泣いた夜 DOCUMENTARY of HKT48』と『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』だった。48グループ最重要メンバーの一人・指原莉乃が監督を務めた『尾崎支配人が泣いた夜』はその性質上、指原自身が被写体ともなる。このグループ内でひとり特権的な場所にいる指原は、メンバーとしての自分やHKT48というグループ全体のみならず、そうした立場で映画を撮っている監督としての己さえも俯瞰し、このドキュメンタリー自体をいかに制御するのかという手の内を解体して見せていく。ただし、そうした作りにもかかわらず、映画自体は指原個人の独善としてあるのではなく、あくまでメンバーたちの躍動や成長、メンバー同士の関係性へと収斂していく。その秀逸なバランス感覚は、グループアイドルの何が楽しまれ、どこに困難があるのかを熟知している指原ゆえであるし、またそのスタンスは過去に幾度も撮られてきたAKB48のドキュメンタリーの蓄積があってこそ、豊かなバリエーションのひとつたりえるものだ。

「指原監督」がアイドルシーンにとってこれ以上ないほどの内部者であるならば、NMB48のドキュメンタリー『道頓堀よ、泣かせてくれ!』を監督した舩橋淳は、AKB48系ドキュメンタリー史上最も「外部」に位置する。同作が携えているのは、いわば「世間」から見たAKB48的なるもののパブリックイメージを自然となぞっていくような視線である。この作品は、他の作品群に比べればシンプルすぎるほどにクローズアップする要素を絞っていく。作品トータルで見て、ここまで「握手」と「選挙」を競争の要素として重く扱ったものはなかっただろう。そうした要素はいわば、「世間」にとっての、AKB48グループを表す記号である。先のSKE48との対比でいうならば、NMB48は選抜総選挙を通じた競争を、相対的に追求してこなかったグループである。それでもなお、この映画の視点は選挙にとても重い意義を見出そうとするし、そのぶんメンバー間の些細な人間関係を拾うような「遊び」は少なくなる。そうした作りは、先の指原のスタンスとはまったく違うかたちで、ドキュメンタリーがある固有の視点から恣意的に切り取られるものであることを浮き彫りにする。そして、このようなフレーミングもまた、巨大なメディア的存在となったAKB48グループに対して社会が抱くパブリックイメージのひとつなのだ。おそらくは、ファンやメンバーにとってよりも、ファンではない「世間」の方が、AKB48グループにおける選抜総選挙を大きく絶対的なものとして位置づけている。たとえばそんなことも、この作品独特の足場によってこそ認識させられるのだ。

 AKB48グループは、内輪的に楽しまれるような集団のダイナミズムを無数に備えたエンターテインメントであり、また同時にファンではない人々にとっても大きな存在感を放つメディア的存在である。AKB48の派生グループがこの一年で描いてきたドキュメンタリー群は、そうした巨大で複合的な意味を持つこの組織の奥行きを、さまざまな位相で表現してきた。次にやってくるのはAKB48の新作ドキュメンタリーとなるはずだ。派生グループによってドキュメンタリーがいくつもの視覚を提示してみせたうえで世に放たれる本家のドキュメンタリーは、その背景に重層的な景色を帯びているはずである。

■香月孝史(Twitter
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。

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