磯部涼×中矢俊一郎「時事オト通信」第3回(前編)
J-POPの歌詞を今どう語るか? 磯部涼編著『新しい音楽とことば』が提示する新たな歌詞論
音楽ライターの磯部涼氏と編集者の中矢俊一郎氏が、音楽シーンの“今”について語らう新連載「時事オト通信」第3回の前編。磯部氏が編者を務めた書籍『新しい音楽とことば――13人の音楽家が語る作施術と歌詞論』が11月14日に発売されたことを受け、今回は同書のテーマである、J-POPを中心とする歌詞について、そのありかたを考察していく。(編集部)
中矢:今年の夏から磯部さんと一緒につくってきた、『新しい音楽とことば――13人の音楽家が語る作施術と歌詞論』という歌詞に焦点を当てたインタヴュー集が11月に刊行され、ありがたいことに好評をいただいていますが、そもそも本書は2009年に刊行された『音楽とことば――あの人はどうやって歌詞を書いているのか~』の続編ですよね。
前作は、磯部さんも私も関わっておらず、今作のデザイナーである江森丈晃さんが監修を務めたもので、同じく13人の自作自演系ミュージシャンにインタヴューをしているものの、基本的には各人の具体的な作詞のプロセスを聞き出すというスタンスであり、それぞれのファンが読んで楽しい歌詞にまつわるインタヴュー集、という趣の一冊になっていたかと思います。でも今回は、それぞれ異なるフィールドで活躍しながら、歌詞に意識的だと思われる13人へのインタヴューを通じて、今この時代の“歌詞論“を提示しよう、という編集意図があった。しかも、音楽ファンが「面白い」と評価する歌詞だけじゃなく、「つまらない」とか「劣化した」とか「翼広げすぎ、瞳閉じすぎ」とか揶揄しがちなJ-POPの歌詞も議論の俎上に載せようとした。
というのも、磯部さんがまえがきに書いていますが、「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉があるように、社会のリアリティが変容するとともに歌詞のリアリティも変容するのであって、あれこれボヤくのは時代についていけていないからなんじゃないかと。また、ひとつの歌がすべての大衆の気持ちを代弁できる時代でもない。そこで、毛色の異なるミュージシャンたちに作詞術と歌詞観を訊くことで、今の歌詞のありかたを浮かび上がらせようとしたわけです。ただ、歌詞についての論考集ではなく、あくまでインタビュー集なので、明確な結論は書かれていません。あえて今まで尋ねていなかったのですが、磯部さんはそんな本書の監修を通じて何か“答え“らしきものは見つかりましたか?
磯部:まず、制作の発端から話しておくと、僕は、いま説明してくれたように、前作の監修者である江森丈晃くんから依頼を受けて、今作の監修者を引き受けることになったわけだけど、江森くんはもともと歌詞に興味がないひとだったんだよね。例えば、前作の前書きの冒頭部分はこんな感じ。
歌詞ってなんだ? という問いかけから、この本を作ろうと思いついたのが、去年の春頃のこと。
いきなりの私事になるが、その10年前までは、まったく日本語の音楽を聴くことがなく、それについて訊かれるたび、「だって部屋で映画を観るときに、副音声はオフるでしょう? 音楽は楽器の響きだけで伝わるものが多いからさ、余計な解説はいらないし、こっちから聴こうとするまでは、歌詞なんか入ってこない方がいいんだよ」……と、ヒネていた自分にも、確実に刺さり、気持を揺さぶられ、「この歌詞を書いた人は、いったいどんな回路を持っているのだろう?」と興味の湧く言葉というのが増えてきた、というのがそのきっかけだ。
(江森丈晃・編『音楽とことば――あの人はどうやって歌詞を書いているのか』、ブルース・インターアクションズ、09年より)
そういうひとがつくったからこそ、『音楽とことば』は好奇心に満ちた瑞々しい本になっていたと思う。一方で、僕は日本のラップ・ミュージックを取材対象にしてきたこともあって、これまで、歌詞について考える機会が多かった。北田暁大が、ライトな音楽リスナーに多い、歌詞を重視する“歌詞フィリア”と、コアな音楽リスナーに多い、歌詞を重視しない“歌詞フォビア”という2項対立について書いたことがあった(『ユリイカ』03年6月号掲載、「ポピュラー音楽にとって歌詞とは何か――歌詞をめぐる言説の修辞/政治学」)けど、江森くんが後者から前者に寄ったのが『音楽とことば』だったとして、僕が『新しい音楽とことば』をここぞとばかりにつくったかと言うとそうでもなく、むしろ、今作を機会に前者と後者の中間に立ってみたようなところがあったんだよね。次に、今作の前書きをちょっと長目に引用してみる。
これは、歌詞についての本である。――というか、そもそも歌詞ってなんだろう。まずはそんな根本的なことから考えてみたい。
しかし、答えはすぐに出てしまう。歌詞とは、文字通り、“歌”における“詞”のことである。そして、言うまでもなく、“歌詞”は、“メロディ”だったり“アレンジ”だったりと同じように歌を構成する要素のひとつなわけだけれど、それにしても“歌詞”は他の要素に比べて、特に愛されているように思える。
たとえば、グーグルの検索バーに、ある歌のタイトルをタイプしてみる。すると、たいてい、「○○○○○(歌のタイトル) 歌詞」という候補が最上位に表示される。そして、それを選ぶと、画面にいわゆる歌詞サイトがずらっと並ぶことになる。つまり、単純に考えて、歌を検索しようと思った人の中では、歌詞を知りたがっているひとが最も多いわけだ。一方、コード譜やバンド・スコアといったものは候補にすら出てこないこともある。もしくは、本屋で楽譜を買おうとした場合、たいてい、それは隅っこに追いやられているし、置いていない店も多い。それでいて、歌詞だけを詩集のようにまとめたいわゆる歌詞本は一般書籍とともにどーんと山積みになっていたりする。
また、ツイッターには、歌詞botと呼ばれるアカウントがたくさんあって、お気に入りのアーティストのものをフォローすれば、タイムラインに定期的に彼らの歌詞が流れてくる。あるいは、日本の歌詞サイトの使い方がテキストを読むだけなのに対して、近年、英語圏で人気のGeneusでは、掲載されているテキストに利用者が「この箇所は、実はこういう意味なんだ」といった解説を書き込むことが出来る。日本でもそんなサイトがあれば面白いのにと思うけれど、すでに個人のブログで好きな歌詞を読み解いている人も多いし、それは商業ライターも同じかもしれない。歌の批評においては、楽曲分析よりも歌詞分析が主流だ。
もちろん、人々がまず耳を傾けるのは“歌”、そのものである。しかし、歌詞やメロディやサウンドが絡み合った歌という芸術の中でも、歌詞という要素は妙に偏愛されているように思えてならないのだ。
(磯部涼・編『新しい音楽とことば~13人の音楽家が語る作詞術と歌詞論』、スペースシャワー・ネットワーク、14年より)
特に日本では、「この国の音楽市場でデータ販売がそこまで伸びないのは、データには歌詞カードが付いていないからだ」っていう説がまことしやかに囁かれるぐらい歌詞が偏愛されている。また、ニコ動×ボカロ文化以降、MVに歌詞を付けるケースが増えて、歌詞フィリアの傾向はさらに強まってきているように思う。一方で、江森くんは、近年、「興味の湧く言葉が増えてきた」と書いていたけど、実際には、中矢が言ったように「最近のJ-POPの歌詞、翼広げすぎ、瞳閉じすぎ」みたいな意見もよく聞かれるようになっている。
ちなみに、引用した前書きでは「歌の批評においては、楽曲分析よりも歌詞分析が主流だ」と書いたけど、アカデミックな分野ではそのような歌詞を偏重した分析の仕方に疑問を呈しているひとも多くて、例えば、サイモン・フリスも、ポピュラー音楽の歌詞においては“何が歌われるか”ではなく“どう歌われるか”が重要――要するに、歌詞を単なるテキストとして読むだけでなく、“歌”という表現のパフォーマンス性やメディア性にも注目しなければいけないというようなことを言っている。最近でも、細馬宏通『うたのしくみ』(ぴあ、14年)なんかは、歌を論じるにあたって歌詞を“読む”のではなく、歌詞を“聴く”ことにこだわっていた。
そして、『新しい音楽とことば』では、歌詞フィリアにハマりすぎないように注意しつつも、歌詞フィリアが蔓延し、歌詞が劣化したと思われているガラパゴスな状況を喝破するのではなく、そこに、何らかの“新しさ”を見出せないか、というテーマをまずは立ててみたんだよね。では、そこからどんな答えが見えてきたか……ってことについてはもう少し後で語ろうか。