J-POPの歌詞を今どう語るか? 磯部涼編著『新しい音楽とことば』が提示する新たな歌詞論

中矢:“歌詞が偏愛されている”ということで言うと、今回、取材したミュージシャンはみな、サウンドやリズム、曲構造などの音楽面と歌詞は不可分の関係にあることは大なり小なり意識しているようでした。それと、ミュージシャンのパーソナリティと歌詞を同一視すべきか否か、ということも本書のひとつのポイントになっているかなと。実際、アジカンの後藤正文さんは、ツイッターでの発言と歌詞と自分自身を統一させられる昨今の風潮に窮屈さを感じていると言ってました。

磯部:現代では、ミュージシャンは如何に音楽をつくるかだけでなく、メディアにおいて如何に振る舞うかということも審査される。その結果、アメリカではミュージシャンの社会貢献がデフォルトになったり、ヒップホップにおけるホモ・フォビアが是正されたりもした。一方、この国では珍しく、積極的に政治的な活動をしているミュージシャンである後藤さんのツイッター・アカウントに寄せられるリプライが、「音楽だけやっていてくれ」派と「政治的な活動もしてくれ」派に二分されているのを見ると、日本はまだまだ過渡期なのかなと思う。ただ、どちらの一派も、SNSによってミュージシャンの声がダイレクトに届くようになったことで、“ミュージシャンがメディアにおいて如何に振る舞うか”について過敏になっているという点では共通していて、そして、それは、ミュージシャンとその発言や歌詞に同一性を求める雰囲気をつくり出しているようにも感じる。

 70年代以降の日本のポピュラー音楽では、歌い手が作詞を手掛けるケースが増えたこともあって、歌詞フィリアがアーティスト信仰に結び付き、歌詞から歌い手の思想や生き様を読み解くような分析も増えたわけだけど、そこにさらにPC(ポリティカル・コレクトネス)まで求められるのはキツいだろうなぁ、そもそも、歌詞をいたってフィクショナルにつくっているひともいるわけだし……と思っていたら、やはり、今回、インタヴューしたミュージシャンも、歌詞と自身の関係についてはそれぞれの見解を持っていたよね。

中矢:例えば、自分自身のことを歌詞にダイレクトに表すイメージがあまりない石野卓球さんは、電気グルーヴ初期の代表曲である「無能の人」(90年)とそのリメイク「N.O.」(94年)のサビ「学校ないし 家庭もないし/ヒマじゃないし カーテンもないし」は、人生解散後の自身の実体験がベースになっていると言っていましたよね。まあ、そのこと自体はファンの間では広く知られていますが、当時の“リアル”を歌った曲だけに、それが“リアル”に感じられなくなった時期に歌えなかったという話が印象的でした。

磯部:「(「無能の人」では)人生が解散した後の卓球さんの心情が表現されていると言われていますね」という質問に対して、「心情ってほどのことではないかな」と断りを入れつつも、「あの曲は25年近く歌ってても、そんなに恥ずかしくないというか。素直すぎて逆にね。かといって、そのときの自分の状況を必要以上に赤裸々に表現はしていないし」って答えていた。でも、それを、「N.O.」としてリメイクしろとレコード会社から指示された時は、「自分の興味はインストのテクノに向いてて、ああいう歌ものは真逆だったからすごく嫌だった」と。「デビューして数年経った頃だったから、あの曲をつくったときの気持ちとは全然違って。ビッグ・ヒットこそ出ていないけどそこそこ売り上げもあったし、あの歌を歌うことにリアリティが感じられなかった」。しかも、「無能の人」の頃は「四畳半の部屋に住んでて、カーテンの代わりにブルース・リーの『死亡遊戯』のポスターを窓に貼ってた」けど、「N.O.」の頃は「家にカーテンがあったもん」。そして、「逆に今は何で歌えるかっていうと、カーテンが必要ない家に住んでいるから」……というのは実に明解な説明だったよね(笑)。

 一方で、「一番遊んでた頃」の体験を基にした「虹」なんかは「今のムードに合わなくてライヴでは全然やってない」。また、アブストラクトでシュールな「Oyster(私は牡蠣になりたい)」なんかも具体的な経験がモチーフになっている。あるいは、「(ピエール瀧)と二人でよく話していたのは、「歌いたいこと何もねぇな」ってことで。で、「本当は何もないのに、さも自分の意志があるような感じで歌うのはやめよう」と。だったら、あるものをそのまま歌う。「富士山」とかね。そこには嘘がないから」とも言っていたし、電気グルーヴの歌詞は俗に言う“リアルな歌”みたいなものとは懸け離れているけど、それは、本当に“リアル”にこだわっているからこそなんだと思ったな。

 他にも前野健太くんなんかは、シンガー・ソングライターであるがために、個人的な体験を歌詞に書いていると思われがちだけど、「歌詞はすべてフィクションです。ただ、感情は入れたい。だから物語にして登場人物にセリフをしゃべらせたり。ただ、(略)自分の声を使うと熱くなってしまう部分はある。それが目下の課題で。ホントは物語なので、うまく演じることができればいいのですが」と語ってくれた。それを読んで、以前、やはりシンガーソングライターである豊田道倫さんが、「(私小説的だと)人からよく言われるんですけど、自分ではあまりそう思いません。私小説自体、川崎長太郎とか耕治人とか、よっぽど極北の人以外は読まないし。もうちょっと違うことをやっているつもりです」(『ele-king vol.1』、メディア総合研究所、11年)と発言していたのを思い出したな。そもそも、“私小説”というジャンル自体がそうであるように、“歌詞”と“作者”の関係は決して単純に“=”で結ばれるわけではないんだけど、かと言って“≠”でもなく、時に“≒”だったり、あるいは、“×”だったり、“÷”だったりすることを考えながら聞くと面白いかもしれない。

中矢:卓球さんは「日本のロック・メディアでは歌詞から作者個人の心情を読み解こうとすることが多いですよね」という質問に対して、「特に『ROCKIN’ON JAPAN』のインタヴューは、当初、そういう訊き方しかしてくれなくて」とも言っていましたよね。同誌のインタヴュー記事は、「ロキノン節」と小馬鹿にもされてきました。ただ、編集者目線で話をすると、90年代、あの雑誌は若いミュージシャンのポートレイト撮影に新人のHIROMIXなんかを起用したりして被写体と写真家の距離が物理的・心理的に近かった覚えがあり、ヴィジュアル面でも音楽家のパーソナルな部分に迫ろうという編集意図があった気がします。そういうアプローチは日本の他の音楽雑誌はやっていなかったので、ある種の音楽ジャーナリズムのスタイルを確立したという意味では評価したいと思いますが、今はそれがやや形骸化しているきらいもあるかなと。

磯部:『ROCKIN’ON JAPAN』のインタヴューって、まさに、歌詞フィリア/アーティスト信仰者にターゲティングしたものなんだよね。ただ、日本の音楽市場のメインがそうである限り、それを全否定してもしょうがなくて、この本もまずは各ミュージシャンのファンに読んでもらおうと考えてつくったようなところがある。その上で、あえて、各ミュージシャンに共通する質問を投げかけたり、もしくは、各ミュージシャンから共通する単語を引き出したり、そして、それをリンクさせることによって、各ファンが目当てのミュージシャンの発言とはまた別の“答え”らしきものを見つけてくれたら良いなと思ったんだ。

(つづく)

■磯部 涼(いそべ・りょう)
音楽ライター。78年生まれ。編著に風営法とクラブの問題を扱った『踊ってはいけない国、日本』『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』(共に河出書房新社)がある。4月25日に九龍ジョーとの共著『遊びつかれた朝に――10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』(Pヴァイン)を刊行。

■中矢俊一郎(なかや・しゅんいちろう)
1982年、名古屋生まれ。「スタジオ・ボイス」編集部を経て、現在はフリーの編集者/ライターとして「TRANSIT」「サイゾー」などの媒体で暗躍。音楽のみならず、ポップ・カルチャー、ユース・カルチャー全般を取材対象としています。編著『HOSONO百景』(細野晴臣著/河出書房新社)が発売中。余談ですが、ミツメというバンドに実弟がいます。

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