近い未来、役者の半分はロボットになる? アンドロイド俳優やロボット演技などの試みから考える
映画的演出でアンドロイドに感情を生んだ深田晃司
平田オリザの主宰する劇団「青年団」にも所属経験のある深田晃司監督は、平田氏のロボット演劇の戯曲『さようなら』を2015年に映画化した。本作の演技の作り方も平田氏の考えの延長線上にあると思われるが、深田監督はさらに映像ならではの演出で、アンドロイドの心を表現している。
例えばモンタージュだ。モンタージュとは、映像のカットをつなぐことだが、とりわけカットの組み合わせによって、カットに映っている以上のことを表現することを指す。
例えば、真顔の男性を映したカットと赤ん坊のカットをつなげば、その男性が赤ん坊を慈しんでいるように見えたり、同じ男性のカットを美しい女性のアップと繋げたら、その女性に見とれているかのような表現になる。同じカットでも、つなげる映像を変えることで異なる感情を表現できるわけだ。
『さようなら』のラストカットは、地に伏せて見上げるアンドロイドのカットだ。この時のアンドロイドはほとんど無表情だ。しかし、そのカットの前に竹林に咲く美しい花をつないでいる。この編集によって、地に伏せるアンドロイドが、美しい花を見上げて、感動しているような印象を抱かせるのだ。
作中、アンドロイドの所有者だった女性が、アンドロイドに美しさを理解できるか問うシーンがあり、それが伏線になっているのだが、このラストカットは、モンタージュによってアンドロイドが花の美しさに感動している(感情を動かされている)ように観客に感じさせる。つまり、アンドロイドに心があるのだと思わせることに成功しているのだ。
映画の場合は、このような編集の演出によっても感情を表現できる。極端な話、マネキンであっても感情表現が可能と言える(出演者が全員マネキンだった『オー!マイキー』という作品をご存知だろうか?)。ならば、アンドロイドが映画の主演をしても何も問題ないだろう。
将来、役者の半分はロボットになる?
平田オリザは、将来的には「少なくとも役者の半分がロボットに置き換わる」と予測していると、石黒教授は前述の自著で語っている。
アンドロイド俳優には多くの利点がある。危険なスタントに挑ませても文句は言わないだろうし、何十回も同じシーンをリテイクしても疲れを知らず、正確に同じ芝居を繰り返せる。さらに、プログラミング次第でどんな言語でもしゃべらせることもできる。映画『さようなら』のアンドロイドは、日本語も英語もフランス語も流暢に話すことができた。生身の役者にとって言語の壁は大きいが、アンドロイドならその壁を乗り越えられる。
アンドロイド俳優が定着すれば、映画も演劇も新しい表現の可能性が開けるかもしれない。ハリウッドで日本製のアンドロイドがどんな芝居を見せてくれるのか、今から待ち遠しい。
■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。
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