戸川純、ポップアイコンとして果たしてきた使命 社会の歪みを射抜いた痛烈な批評眼と表現力
イギリスの月刊音楽誌『WIRE』の目下の最新号(454号)に戸川純のインタビュー記事がかなり大きく掲載されている。「Blow U…
時は81年、東京のストリート・シーンの主役が東京ロッカーズ組から、ザ・スターリン、じゃがたらに移りつつあった時期である。プラスチックス、ヒカシューらテクノ・ポップ組の拠点だった渋谷の喫茶店「ナイロン100%」の常連で、8 1/2の取り巻きだった女優の卵・戸川純(vo)と、元8 1/2→ハルメンズの上野耕路(key)、作詞担当の太田蛍一のコンセプチュアルなデザイン・アートが加わったユニットが、ゲルニカである。
極端な箱入り娘で、自宅から外に出してもらえず、本を読むかレコードを聴くか空想するぐらいしかやることがなかったという戸川は、音楽と言えばクラシックや戦前の歌謡曲しか知らず、ロックなど聴いたこともなかったという。それに日大芸術学部作曲コース出身で、ドイツ表現主義に傾倒し、オネゲル、プロコフィエフなどの20世紀前半の現代音楽にも精通する上野のセンスと、太田のもつイタリア未来派的オポチュニズムが合体し、マレーネ・ディートリヒや大陸歌謡などの要素を加えたゲルニカの音楽は、ロック的なクリシェを徹底的に排除して、今で言うモンド・ミュージックの概念を先取りし、ヨーロッパの借り物ではない真の日本的デカダンスを追求していた。それは旧来のロック的価値観が根底から揺さぶられていたパンク/ニューウェイヴの季節だからこそ生まれ得た個性だったかもしれないが、硬直したロック形式主義が氾濫する今だからこそ、そのクールな批評的スタンスは有効かもしれない。
ゲルニカは82年にアルバム『改造への躍動』をYMO主宰の<YEN>レーベルより発表して解散、88年に再結成して2枚のアルバムを遺し、再び活動停止している。 (小野島 大)
イギリスの月刊音楽誌『WIRE』の目下の最新号(454号)に戸川純のインタビュー記事がかなり大きく掲載されている。「Blow U…