『急に具合が悪くなる』は“答え合わせ”の新作か 2010年代の濱口竜介とこれから

『急に具合が悪くなる』は“答え合わせ”か

「映画」の隠喩

 話を濱口に戻し、原稿の最後に、もうひとつの読みをつけ加えよう。

 私にとっての濱口映画の大きな魅力と可能性のひとつは、映画と演劇との関係の問い直しもそうだが、デジタル化を含む趨勢によって、この21世紀に、映画がかつての映画から変わりつつあるという状況を作品でラディカルに主題化する姿勢にあった(先の三浦は『『ハッピーアワー』論』で、そうした濱口作品を「震災後の映画」と呼んだ)。『急に具合が悪くなる』も、そうした視点で見ると、やはり映画というメディアを問い直す隠喩的な符牒がいたるところに見られるように思う。

 たとえば、指人形から真理が施す足の裏マッサージにいたる身体性や触覚性のモティーフ。また、ホワイトボードからスマートフォンのチャット画面にいたる「インターフェイス」のモティーフ。この2つ――触覚性とインターフェイス的画面のテーマは、ポストシネマを構成する重要なメディア論的主題として、拙著でも繰り返し論じてきた(※11)。

 あるいは、映像におけるアナログとデジタルという(本作がいろいろな形で示してきた)二項対立の問題。本作の印象的なシーンとして、パリの街中を話しながら歩いていたマリー=ルーと真理の額に、鳥の糞が落ちる。この描写は、映画のラストでもう一度、繰り返される。ただ、ふたたび鳥の糞を額に受けるのは、2人のうちマリー=ルーだけだ。他方の真理は、故郷の山頂で、吾朗と智樹によって白く細かな砂のような遺灰になって壺から空中で撒かれる。

 このラストの生死の対照性は、どこか映像メディアにおけるアナログとデジタルのイメージをそれぞれ髣髴とさせるところがある。映画や写真とはかつてのフィルムの時代(ある意味では現在もなお)、アンドレ・バザンからロラン・バルトまでが述べたように、この現実の物理的痕跡だった。カメラという機械のレンズを通して被写体に反射した光がフィルムの表面で化学反応を起こし、被写体のイメージを定着させる。

 この現実世界に偶然存在していること。記号論では「指標性indexicality」と呼ばれるそのリアリズム的な性質を、落下する鳥の糞を受け止めたマリー=ルーの額の肌の表面は隠喩的になぞっていた(そもそも「肌skin」は映画の「スクリーンscreen」と語源的に同じである)。

 対して、目に見えないほどの細かいパーティクルになった真理の遺灰は、どこかそうした指標性からは隔たったデジタルデータの隠喩に見える(※12)。

 また、同じような対比の関係は、まさに本作の物語の主軸である、マリー=ルーが象徴するユマニチュードのリベラルな理想主義と、ソフィが象徴する介護現場のリアリズムにも窺えるだろう。マリー=ルーは、一人ひとりの入居者に「人間」として接し、彼らの固有の言動を注意深く、丁寧に「観察」して介護することを周囲に求める。しかし、実際には認知的にも体力的にも、あるいはスケジュール的にも、そんなことは現実的には不可能だ、というのがソフィの理屈だ。

 この2人の主張の対比は、図らずしも映画(映像)というメディア経験にまつわる慣習の変遷を寓意化して見せているように思えてならない。

 昨今も、動画配信サービスや4DXなどの普及により、「倍速視聴」や「ながら見」、体感型鑑賞が話題になっているのは周知のことだが(※13)、しばしば映画というメディアの鑑賞経験が、かつての真っ暗な映画館で目の前のスクリーンの映像に集中して意味を解釈するあり方から、テレビやデジタルゲーム、テーマパークのアトラクションといった新たな娯楽のように、気散じ的に刺激を体感するというそれに変化していると言われる(「凝視gazeから瞥視glanceへ」)。とりもなおさず、マリー=ルーが主張するのは、ある意味で蓮實重彦の表層批評に象徴される「凝視」的な映画鑑賞の隠喩であり、ソフィの主張は、現代の「気散じ」的な映画鑑賞のそれへと重ねられるのだ。

 しかも注意したいのは、本作のオープニングが、陽光にまどろむマリー=ルーの虚ろな表情から始まっているという事実だろう。「凝視」的な介護姿勢を主張するマリー=ルー自身が、そもそも「気散じ的」な表情でスクリーンに登場するのだ。他方のソフィも、最後にはユマニチュードに寛容な態度に変わる。すなわち、ここでも「対立させられたり、離れていたり、優劣づけられていた多様な要素が相互に能動的に関わりあい、形を変えあっていくという事態」が、はっきりと描かれているのである。

 いずれにせよ、私にとっては、濱口竜介こそが、現代映画の可能性と同義たりえる映画作家だという信頼は揺らがない。遠からぬうちに機会を見つけ、また196分を体験しつつ、以上の感想が根本から塗り替えられるのか、あるいは「新しい濱口竜介」をいっそう期待するのか、じっくり考えることにしたい。

参照
※1. 渡邉大輔「演劇・分身・幽霊――濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』論」、『明るい映画、暗い映画――21世紀のスクリーン革命 映画・アニメ批評2015-2021』blueprint、2021年、218-229頁。同『新映画論 ポストシネマ』ゲンロン、2022年、112-118頁。
※2. 前掲『明るい映画、暗い映画』、66頁。
※3. 前掲『新映画論』、117頁。
※4. 濱口自身は、『PASSION』以来の自らの映画的実践の本質を、「偶然が具体的に画面にどう定着するか」、「本来まったく無関係な、複数の出来事が同時的に起こる瞬間を映画に刻み付けること」だと述べている。濱口竜介「偶然をとらえること」、『他なる映画と1』インスクリプト、2024年、252頁、原文の傍点は削除。これは、いわば「偶然をいかに設計するか」という逆説だが、こうした志向が、形を変えて随所に見られるのが濱口作品である。
※5. 三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』羽鳥書店、2018年、137-138頁。
※6. 渡邉大輔「『悪は存在しない』と対称性の論理――下書きめいた小論」、note、2024年5月24日、https://note.com/yoshiken_1982/n/n88827e25db9d
※7. 前掲『新映画論』、416頁。
※8. 大寺眞輔「内在的批判の檻――濱口竜介と『急に具合が悪くなる』」、大寺眞輔@新文芸坐シネマテーク、note、2026年6月22日、https://note.com/quus/n/n26edf436ac67
※9. ちなみに、私は彼らを「2007年の世代」と呼んでいる。ちょうど私と同世代の彼らの映画史的意義については、いずれ主題的に論じたいと思っている。
※10. 最近出した拙著でも日本映画史は、奇数の年代に新しいブレイクスルーを遂げてきたのではないかという仮説を提起した。渡邉大輔『『君の名は。』は日本映画に何をもたらしたのか――庵野秀明、岩井俊二、新海誠から読み解く現代日本映画史』星海社新書、2026年
※11. たとえば、前掲『新映画論』、第8章を参照。
※12. なお、短く補足すると、本作にはアナログ/デジタルの対比にも近しい、実写/アニメーションというテーマを喚起するディテールも目に付く。たとえば、問題の真理がマジックで描き込むホワイトボードの表面は、どこか『愉快な百面相』(1906年)のような草創期のアニメーションを思わせるし、マリー=ルーの口からは、子どもの頃に観たという宮﨑駿や高畑勲の名前が呟かれる。
※13. 稲田豊史『映画を早送りで観る人たち――ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』光文社新書、2022年。

■公開情報
『急に具合が悪くなる』
全国公開中
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
監督・脚本:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners
製作:Cinefrance Studios、オフィス・シロウズ、ビターズ・エンド、Heimat Film、Tarantula
フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作/196分/カラー/1.5:1
©2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm
– Tarantula & Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
公式X(旧Twitter):@FilmAOAS
公式サイト:https://www.bitters.co.jp/soudain/

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