『急に具合が悪くなる』は“答え合わせ”の新作か 2010年代の濱口竜介とこれから

女性主人公たちと濱口作品における「対称性」の系譜
それは、本作の主人公2人の造型にも共通する。以前、『悪は存在しない』について記したnoteの短いレビューで、私は濱口作品のキーワードを「対称性symmetry」という言葉に集約させたことがある(※6)。
本作もまた、よく似通った響きの名前(マリーと真理)を持ち、それぞれが互いの母国に留学経験のある若いインテリ女性が主人公であり、作中でも互いに向き合ったり抱きしめ合ったり双子のような対称性を構成している。このような対称性もまた、濱口作品の多くに共通するイメージだった。
『親密さ』のラストの、あのあまりにも感動的な電車の並走シーン、『不気味なものの肌に触れる』の少年2人が半裸の胸を触れるか触れないかの距離で寄せ合う不可思議なダンス……。極めつけは、東出昌大が丸子亮平と鳥居麦という瓜二つの青年を1人2役で演じた『寝ても覚めても』だろう。また、酒井耕との共同監督によるドキュメンタリー、『なみのおと』(2011年)に始まる、いわゆる「東北記録映画三部作」(2011年、2013年)でも、しばしば小津安二郎に喩えられる、向き合う2人の人物の真正面からの切り返しショットが印象的に用いられる。あるいは、若い2人の女性のカップリングのイメージは、『偶然と想像』の一挿話「もう一度」の夏子(占部房子)とあや(河井青葉)で準備されていたものかもしれない。
原作の著者である日本人女性2人のうちの一人を国籍も母語も異なるフランス人に変更し、自閉症の青年キャラクターを新たに配すという構想も、『ドライブ・マイ・カー』におけるチェーホフの舞台『ワーニャ伯父さん』に参加する俳優の多国籍性やダイバーシティの延長上にある。『ドライブ・マイ・カー』でも、日本人以外に、台湾、韓国、フィリピンなど、さまざまな国籍の俳優たちが自国の言語を用いる多言語演劇が描かれ、その一人であるイ・ユナ(パク・ユリム)は手話を用いるろう者だった。
ちなみに、こうしたダイバーシティやインターセクショナリティに配慮する翻案や原作の改変も、ここ最近の日本映画の、特に濱口(や私)と同世代の監督の作品には見られるようになっている。
たとえば、男性的な作風の印象が強いつげ義春のマンガを、やはり韓国人女性俳優(シム・ウンギョン)の主人公に置き換え、「女性(たち)の物語」に新しく仕立て直した三宅唱監督『旅と日々』(2025)などが挙げられるだろう。
本作では、さしあたりマリー=ルーと真理のあいだに性的な関係性は直接描かれることはない。だが、物語後半の真理によるマリー=ルーの足のマッサージや、マリー=ルーに離婚歴があることを、彼女が唐突に(思わせぶりに?)チャットで真理に打ち明けるシーンなどからは、クィアな読解をも許す含蓄があるように思える。
「答え合わせ」の新作あるいは「2010年代の映画」?
ともあれ、この一面では鏡像のように対称的な2人の女性、そして、当初、相互に対立的な関係に置かれていた経営者と従業員、理想主義者と現実主義者、介護者と入居者――そして、それらを象徴的に体現すると言える演者と観客の二項が、物語の最後で、相互に交渉し合い、ある意味で一体化する、祝祭的で、カオティックで、ユートピア的なヴィジョンが提示される。
この結末に、ことさら感銘を受ける者も少なくないようだ。もちろん、過去の濱口作品や近年の日本映画の傑作を未見の観客なら驚嘆するだろう。
だが、このようなヴィジョンは、むしろ濱口をはじめ、優れた映画作家やアニメーション作家たちが、ここ10年ほどで繰り返しさまざまなバリエーションで試みてきたことだ。
実際、だからこそ私は、現代のポストシネマの本質を、「近代的な価値観や制度(もちろん、そこには従来の「シネマ」も含まれる)のなかでは対立させられたり、離れていたり、優劣づけられていた多様な要素が相互に能動的に関わりあい、形を変えあっていくという事態」(※7)から生まれる映画と、すでに何年も前に定義しているのである。『急に具合が悪くなる』の結末も、基本的には上の定義をきれいになぞっているように、少なくとも私には見えた。
繰り返すように、『急に具合が悪くなる』は、すでに2020年代初頭に世界的評価を獲得した気鋭の映画作家が満を持して海外進出を果たした、堂々たる傑作と言える。また、先行作同様、作中には、観る者をしていろいろと語りたくさせるような無数の批評的フックが散りばめられており、濱口が今日の世界においてもっとも知性的な映画作家の1人であることは論を俟たない。
しかし、もう10年来、この作家の新作を追い続け、現代映画について、彼の作品とともにそれなりに長く考えをめぐらせてきた者からすると、その、既視感を呼び起こす本作の「端正さ」こそが、どこか物足りない作品でもあるのである。管見の限り、あまりこの点に本格的に言及しているレビューは、不思議と見当たらない。というのも、おそらくそれは、現代映画全体を体系的に捉えず、個別の作品ごとにその都度評価するタイプの批評では見えてこないことだからだ。
とはいえ、フランス映画にも造詣の深い映画批評家の大寺眞輔は、noteに執筆した本作のレビューで、つぎのように鋭く記していた。
「悪あがきしようよ」との台詞はあるが、映画全体は悪あがきしていない。その上映時間の長さにもかかわらず、この作品はあくまで面白く、楽しく、見応えがあり、快適でスマートだ。それは、清宮(長塚京三)の一人芝居に闖入する自閉症の彼の孫である智樹のように、あるいは同じ舞台で、おそらく演出家である真理の指示によって観客が手にする楽器のように、どこか計画的で想定された驚きの範囲にとどまっている。(※8)
大寺のこの評は、私とはまた別のアプローチながら、本作の本質を的確に捉えている。まさにそうなのだ。本作は、「あくまで面白く、楽しく、見応えがあり、快適でスマート」だ。が、「どこか計画的で想定された驚きの範囲にとどまっている」。「悪あがきしていない」。運動や逸脱に乏しい。
率直に言って、本作は、これまでの仕事の成果発表というか、どこか「答え合わせ」をしているような気分になる映画なのだ。実は、同様のニュアンスは、すでに『ドライブ・マイ・カー』あたりから感じていた。
ここで、冒頭で私が、本作が『ハッピーアワー』から約10年、『ドライブ・マイ・カー』から5年の作品といった含みをあらためて語ることができる。『PASSION』(2008年)以来、濱口竜介は、私にとって、いまの日本でも屈指の優れた映画作家である以上に、つねに現代映画の最前線に位置し、その問題設定を更新していく過激な存在だった。ただ、本作においては、自身が切り開いた「2010年代の問題設定」にむしろ捉われてしまっているように思える。しかもそれが、この映画の、作品としての比類ない完成度の高さにつながってもいる。
そして、急いでつけ加えれば、もちろん、それは私自身の映画的感性こそが、2010年代で停滞しているのではないかという自己内省と一体となった感慨でもある。
その内省も踏まえて状況を俯瞰すれば、現在(2020年代)の映画は、濱口らが拓いた地平からの(濱口自身も含め)ちょうど過渡期にあるのではないだろうか。
たとえば、清原惟、団塚唯我、平田雄己など、私の目が届く範囲でも、ここ数年、「ポスト濱口」とも呼ぶべき気鋭の作家が台頭してきている。彼らの作品群は、人間よりも「団地」や「ミヤシタパーク」といった場所を巧みに「主役」に設定したり、時間軸を繊細に演出したりと、個別に興味深い想像力やモティーフを出している。だが、たとえば、濱口や富田克也、三宅唱、石井裕也、深田晃司、大江崇允……あるいはそれより数歳年少の小森はるかや小田香といっただいたい1980年代生まれの一群の作家たちが2010年代に共通して示したほどの新しいパラダイムというのはいまだ打ち出していないようにも思う(※9)。
彼らの本領が発揮されるか、もしくはまったく未知の才能や作品が現れ、また新たな現代映画の地平が本格的に花開くのは、2030年代なのかもしれない(※10)。思えば、ちょうど100年前にもサイレントからトーキーへの移行が起こり、1930年代には古典的映画が世界的に全盛を迎えた。100年後の今日であれば、生成AIというやはり新たな技術が創作環境に根本的な影響を及ぼし、それを作家が真に創造的に使いこなすのは、おそらく30年代になるだろう。


























