『急に具合が悪くなる』濱口竜介の驚くべき跳躍 西洋的な合理性を超えた“あわい”の希望

『急に具合が悪くなる』濱口竜介の跳躍を解説

 特異な作風によって国際映画祭で注目され、『ドライブ・マイ・カー』(2021年)でアカデミー賞国際長編映画賞受賞や、カンヌ国際映画祭での脚本賞という歴史的快挙を果たした、濱口竜介監督。彼に対する国際的なパブリックイメージは、人間の複雑かつときに不穏な関係性を緻密な描写によってかたちづくる映画監督、というところだろう。ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員賞)を受賞した『悪は存在しない』(2023年)を経て、世界の映画ファンから待望されていた長編新作が、このほど公開された『急に具合が悪くなる』である。

 これまでも、規格外の上映時間の映画作品を手がけてきた濱口監督だが、今回はフィルモグラフィー上の第3位となる、なんと196分(3時間16分)という大作である。本作の出発点にあるのは、がんの転移によって2019年に亡くなった哲学者・宮野真生子と、臨床現場を歩く人類学者・磯野真穂が交わしていた往復書簡。個人的であるがゆえに映画化不可能と思われた、同名の書籍化されたやり取りを、濱口監督はいかにして映画へと変換したのか。ここでは、その流れを追いながら、本作が表現したものをじっくりと解説していきたい。

 本作の最大の特徴は、原作の舞台をパリ郊外の介護施設へ、やり取りをする二人を、フランス人の介護施設ディレクターであるマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、日本人の舞台演出家・真理(岡本多緒)という設定に変化させたというところだろう。このことが、国籍も母国の言語も異なる二人の間に距離を生じさせ、国際的なダイナミズムを生んでいるといえる。

 自閉症の青年・智樹(黒崎煌代)や、その祖父である舞台俳優・清宮吾朗(長塚京三)との出会いをきっかけに、真理と深く知り合っていくマリー=ルー。介護施設の管理職として、スタッフの不満と経営陣の圧力の板挟みに遭っていた彼女は、人生の残り時間が少ない真理とのやり取りで、その思いを吐露する。お互いに文化人類学と哲学という知的なベースがあり、知的で刺激的な対話を重ねている二人。だが、鳩のフンを浴びるという描写が、この二人の抽象的に傾く交流を、身体性へと繋ぎ止める。これがクライマックスへの強い伏線であり、またテーマを貫く要素となっている。

 潤沢な上映時間は、この二人の接近する時間そのものを観客に共有させる。リチャード・リンクレイター監督の『ビフォア』シリーズが、ウィーンやパリの街並みを、関係が変化していく劇的空間に変貌させたように、濱口監督もまた、パリの地理を利用しているのだ。この豊かな時間感覚は観客に、いまここで新しい関係性が生まれているという実感を与えていく。本作が長い時間を要求したのは、このマリーと真理の出会いが、いかに人生を変えるものであるのかを、観客にそのまま体験させようとするかのようだ。

 では、なぜマリーは、性的な欲望を喚起しない相手に、これほど強く惹きつけられたのか。それは、真理が演出する舞台、『近づいてみれば、誰もまともな者はいない』が、マリー=ルーの信奉するケア技法である「ユマニチュード」と根本で繋がっている部分があったことや、舞台のQ&Aで語った、「不可能なものは不可能。可能になるまでは」という言葉にあるのだろう。

 これはある意味で、近代社会があらゆる存在を、正常と正常ではないものに分断し管理しようとするシステムそのものへの反逆、パンク精神の宣言でもある。末期のがんというシリアスな状況に直面する真理だからこそ、そうした現状を変えられないものとして諦めないのではないか。その突破力こそ、マリーがいま必要とするパワーだったはずである。

 この後のシークエンスにおいて、真理がマリーの問題の原因を分析していく過程は、本作で最も物議を醸すところであろう。なんと、「資本主義」や「戦争」などを含めた社会の構造を、ホワイトボードを使って説明しだすのである。一見、これは自己啓発とも言える教条的な説明に感じられるかもしれない。だが、この説明自体に共感する部分があったとしても、監督がそのままそれを観客に伝えようとしているというわけではないのではないか。つまりここでのスピーチは、極限状態の女性がホワイトボードを使ってまで、必死に世界の構造を理解しようとしている瞬間を客観視しているのだと読み取れるのである。

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