『踊る大捜査線 N.E.W.』に見た“煉獄” 天国でも地獄でもない場所で青島俊作は走り続ける

「『天国と地獄』だ」
1998年に公開された劇場版第1作『踊る大捜査線 THE MOVIE』で、犯人に監禁された和久さん(いかりや長介)の居場所を突き止めた時に、青島俊作(織田裕二)がつぶやいたセリフだ。
パートカラーを用いた演出、そして誘拐事件を扱う刑事映画としても引用された黒澤明の『天国と地獄』は、三船敏郎演じる製靴会社の常務の息子を攫ったと主張するも、実は彼の運転手の息子を間違えて攫っていた誘拐犯が、それでも構わず彼に身代金を要求するところから物語が始まる。そのタイトルが意味する「天国」と「地獄」は、主人公が住む横浜の丘上に位置する豪邸と誘拐犯が暮らす悪臭漂うスラム街という環境や、経済的かつ社会的格差を指している。そして言うなれば、シリーズ最新作『踊る大捜査線 N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ!』は、“煉獄”のような映画だ。
※本稿には『踊る大捜査線 N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ!』のネタバレが含まれています。
「煉獄」とは、カトリック教会の教えで、天国と地獄の中間的な場所として考えられている。天国には行けず、地獄に堕ちるほどでもないが、まだ罪の償いや魂の清めが完全に終わっていない者たちが行く場所のようなもので、地獄が神から永遠に離れた場所であり、そこから出ることはないとされるのに対し、煉獄では魂の浄化が完了すれば天国にいけると考えられている。
学生時代、カトリック系のミッションスクールに通っていた私は、宗教の授業中、この「煉獄」という場所が心に残った。なぜなら、その時点ですでに「自分のような人間が行くならそこだろうな」と考え、同時に「では煉獄からどうやって抜け出すのか」が気になったからだ。そしてその答えが酷く恐ろしいと感じたのを覚えている。曰く、煉獄にいる魂は自分の力で何かをして抜け出すことはできないとされていて、雑なくらい簡潔に言えば、清めの判定も神のみぞ知る、なのだ。では、“抜け出せない”なんてこともあるのではないだろうか。もう一度言おう、『踊る大捜査線 N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ!』は、“煉獄”のような映画だ。
空虚な幕開けと、それに続く筋のない物語
本作、『踊る大捜査線 N.E.W.』も、『天国と地獄』のように子供を誘拐した犯人が、被害者に身代金を運ばせるところから幕を開ける。その役は途中から青島が引き受け、彼は電車に乗り、車窓から金の入ったバッグを落とすように指示される。これもまた『天国と地獄』の名シーンのオマージュであり、犯人が坂下始(北山雅康)だと明かされたことで『踊る』劇場版第1作への明確な目配せにもなっている。しかし、それにしてもこの一連のシークエンスが長い。
『踊る』シリーズには、「シリアスそうに見えて、実は違いました」という場面や展開が多い。件の劇場版第1作も、緊迫感のある早朝の張り込みシーンから始まったと思いきや、副総監のゴルフ接待の送迎だったというコミカルなオチがすぐに明かされた。それに対し、本作ではオチまでがあまりにも長いため、移動時間や手段がファンタジーすぎても「これは本当の事件なんだ」と見守る。しかし、それら全ては演習で、なんと彼も、私たち観客も騙されることになる。
時間や気持ちを注ぎ込んだ結果、その人物や出来事の行く末が“自分にとってどうでもよくないもの”になった状態で観客の梯子を外す本作の冒頭は、文字通り作品全体のイントロダクション(導入/紹介)としての機能を果たしていた。それに続く本編では、ウイルスを巡る騒動ですら何でもなかったことが明かされ、いよいよ狼少年に耳を貸さなくなる村人のごとく物語がどうでもよくなってしまう。まさに空虚で、“筋が通っていない”。しかし、そこに毎度のごとく首を突っ込み、疲れ果てていく青島を眺めているうちに、ある寓意が浮かび上がってくる。彼のそんな姿こそが、この映画の本当の主題なのかもしれない、と。
“煉獄”に囚われた青島俊作

先に述べたように、この物語は青島が身代金の運び屋をさせられて都内を駆けずり回るところから始まる。その際、彼は「歌舞伎町駅」で本作における“犯人”とすれ違っていた。『踊る』シリーズに架空の地名が出ることはこれが初めてではないが(TTRも『交渉人 真下正義』で登場)、偽物の事件の中で、偽物の駅が登場し、そこに本物の信念を掲げた男が迷い込んでいく構図になっている。
そこから知っていそうで知らない駅の構内の景観が続くのだが、実はこの映画はそういった“リミナルスペース映画”としての側面を持つ。私たちの知っている『踊る』映画のようであって、そうでない何か。1人の男がそんな空間(物語)に囚われる、という観点でも『8番出口』や『バックルームズ』との類似性を感じずにはいられない。問題は、青島が“どこ”に囚われているのかだ。
そこでは、馴染みのあるキャラクターたちはみな疲弊し、おかしくなってしまっている。真下正義(ユースケ・サンタマリア)の、何度も「精神安定剤が効かない」とクリニックを訪れる姿が痛々しい。そしてすり減っていると感じる見知った顔は、彼だけではない。

そんな中で、青島だけは変わらない。しかし、周囲がみな変質してしまった世界で1人だけ変わらずにいることは、必ずしも希望ではない。むしろ彼だけがその場所の異常さに気付けないまま、そこに留まり続けているようにも見える。では、彼が囚われている“そこ”とはどこか。
映画のクライマックス、今は閉館したイマーシブ・フォート東京で犯人を追い詰めた際に青島が迷い込んだ空間は、施設の案内によれば「未来が見える」などと書かれている展示スペースだった。しかし、そこに映し出されていくのは、ドラマ版から現在の劇場版まで続く『踊る大捜査線』の映像であり、歴史そのものなのだ。「未来」が広がっているはずの場所で見えたものは、「過去」だけだった。彼は前に進んでいるつもりで、自分がかつて駆け抜けてきた道の記憶の中を走っているにすぎない。抜け出せないのだ。そしてこれは、『踊る大捜査線』という作品そのものが抱えている問題でもある。

ひとたび社会現象となったヒット作は、放っておいてもらえない。語るべき物語が残っているのかどうか、脚本上の必然性があるかどうかは時に度外視され、とにかく「新作」を生み出すことが求められる。人気IPがファクトリーのように新しいものを生産し続けることを課される中で、青島は走り続けさせられ、『踊る』は作られ続ける。過去の遺産を燃料にしながら。
近年の『踊る』映画は、公開のたびに賛否が大きく割れ、その争点は決まって「これは『踊る』らしいのか」に行き着く。しかし、このシリーズはあの神がかっていたドラマ版からほぼ変わらない布陣で作られていて、本作も例に漏れない。同じ人たちが作っているのに、らしくない。『踊る』であって、『踊る』ではない。この映画に滲む「知っているようで知らない」という違和感の正体も、おそらくそこにある。
そう考えると、本作に“リミナルスペース”的な不気味さを覚えたのも腑に落ちる。「リミナル(liminal)」の語源はラテン語で「敷居」を意味する「limen」であり、どこかとどこかの“あいだ”にある場所を指す。そして“煉獄”もまた、天国と地獄のあいだ、敷居の上に置かれた場所なのだ。
本作の登場人物たちは、報われて安らぐこともなければ、物語から退場させてもらえることもない。疲弊しながら、ただそこに居続けている。煉獄の魂が、自らの力で抜け出せないように、そしていつ抜け出せるのかを当人が知らないように、このシリーズの“終わり”もまた、青島には決められない。本来は通り過ぎるための場所に留まってしまったときに生まれる、独特の不安が、本作には漂っている。





















