『センチメンタル・バリュー』『レンタル・ファミリー』にみる、“演じること”でわかる“真実”

2026年の注目映画の共通点は“演じること”

『木挽町の仇討ち』“演じること”で宿命を断ち切る裏方たちの心意気

『木挽町のあだ討ち』©2026「木挽町のあだ討ち」製作委員会

 作家・永井紗沙耶子による同タイトルの直木賞受賞作を原作とする、源孝志監督の映画『木挽町のあだ討ち』は、ある仇討ち事件の真相を探るべく、事件から一年半後、江戸にやってきた田舎侍・加瀬総一郎(柄本佑)が、関係者たちの話を聞きながら、その背景にある悲喜こもごもを解き明かしてゆくミステリータッチの作品だ。しかし、こうも言えるだろう。それは、芝居小屋に関わる人々の協力のもと、自分たちが公衆の面前で“演じること”によって、その宿命と因果の糸を断ち切ろうとした者たちの物語であると。そこで興味深いのは、その“あだ討ち”に協力する者たち――芝居小屋で働く人たちの心意気だ。

 彼/彼女たちは、なぜそこまで“演じること”――“芝居”を愛するのか。その理由は明白だ。彼/彼女たちは、かつて“芝居”に“救われた”経験があるのだ。映画版は“謎解き”を中心に据えているがゆえ、その“救われた”部分の描写がいささか物足りないようにも感じたが、それについては、実は連作短編という形式をもった群像劇である原作小説のほうを是非参照いただきたい。事件の真相よりも、彼/彼女たちの思いのほうが、本作のメインテーマであるように思うから。「もちろん噓の話だってことは分かってますよ。そこまで阿呆じゃありません。ただ、いっとき浮世を離れる気持ちよさがたまらなかった」とは、本作に登場するある人物の言葉だ。

『レンタル・ファミリー』偽りの関係から芽生える本物の“感情” 

『レンタル・ファミリー』©2026 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.

 HIKARI監督の映画『レンタル・ファミリー』は、故郷から遠く離れた日本でひとり暮らすアメリカ人俳優・フィリップ(ブレンダン・フレイザー)が、ひょんなことから“レンタルファミリー”会社の仕事を受けるようになる物語だ。彼は、見知らぬ少女の父親役を“演じること”によって、あるいは老俳優を取材するジャーナリスト役を“演じること”によって、それまでの彼の日常にはなかった“感情”を芽生えさせてゆく。それは、存在しない我が子に寄せる“感情”であり、恐らく自身の父親とは築けなかったであろう良好な関係性であり、その身を気遣う素直な“感情”である。その役を“演じること”をしなければ、決して生まれることがなかったかもしれない“感情”。本作で重要なのは、演じる彼と相対する者が、彼の演技を演技とは思ってないことにある。

 だからこそフィリップは、自身の中に生まれた“感情”に戸惑い、ときに申し訳なく思う。言い方を変えれば、彼は嘘をついている――相手をだましていることになるのだから。しかし、やがて彼は知るのだった。自分が少女や老人に強く惹きつけられたのは、そこに自らと同じ深い“孤独”を感じたからなのだということに。そう、本作において、フィリップの本来の職業が“俳優”であることは、実はそこまで重要ではない。そもそも、“レンタル・ファミリー”会社を立ち上げた経営者・多田(平岳大)の問題意識(あるいは商機)は、昨今の日本社会に蔓延する「孤独や人間関係の希薄さ」にあるのだから。人間は誰しもが“役割”を演じる“演技者”である――とは社会学でよく言われることだが、その意味でフィリップは『センチメンタル・バリュー』の登場人物たちよりも、観ている我々に近い存在と言えるのかもしれない。だからこそ、共感度が高いのだ。

“演じること”でしか出会えない自分自身の“真実”

『レンタル・ファミリー』©2026 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.

 このように、“演じること”について、いずれも異なるアプローチを持った4作品ではあるものの、それらすべてに共通していることがひとつある。それは「“演じること”でしか触れることのできない“真実”がある」ということだ。真衣はアイドルとしてステージに立つことによって、ノーラは父の映画に出演することによって、“あだ討ち”に関わった人々は、それに参加することによって、フィリップはレンタルファミリー会社の仕事を通じて、たとえ映画の中では詳細に語られなかったとしても、それぞれの“真実”に触れたのだろう。その“真実”とは、何についての“真実”だったのか。それは、自分自身についての“真実”だ。

 真衣は、奇しくもアイドルをやめざるを得なくなって初めて、自身がアイドルに託していた本当の思いに気づいたのだろう。ノーラは、父によって書かれた脚本を自らが演じることによって、それまで知ろうとしなかった父の“痛み”を感じると同時に、自身の奥底にある、父や家族に対する複雑な思いを理解したのだろう。そして、“あだ討ち”に関わった人々は「いっとき浮世を離れる気持ちよさ」がたまらない自分たちの本懐に、フィリップはレンタル・ファミリーの仕事を通じて、自らの内なる“孤独”に気づいたのだろう。それはいずれも、“演じること”を介在させなければ、決して知ることのなかった自分なのかもしれない。

 そしてそれは、それらの映画を観る私たち自身もまた同じなのかもしれない。その映画を観ることによって、それまで知ることのなかった自らの“感情”に気づいてしまうこと。繰り返しになるけれど、それが私たちが映画や演劇など、誰かがそれを“演じること”によって成り立つ芸術を観る、大きな理由のひとつなのだろう。そう、すぐれた作品を観るたびに、私たちはそれまで知らなかった自分自身の“真実”と出会うのだ。

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