『ルックバック』『チェンソーマン』の片鱗も 『藤本タツキ 17-26』で知る藤本タツキの原点

そういう異質な自我が、逃亡から力の覚醒へとジャンプする一編が、『佐々木くんが銃弾止めた』だ。平凡な学生・佐々木が、好意を寄せる教師への一念から、補習の授業中に乱入した変質者が撃った銃弾を、文字通り止めてしまうという内容なのだが、この、まさに授業中に学生が妄想したようなストーリーからは、自分の才能が特別であってほしいという願望が、臆面もなくストレートに表現されているといえよう。ラストで佐々木は人類史上有数の存在となり、それは教室の中における自身の無力さと、一方でそこを一気に飛び越えて外部と接続する。この対照的な構図と夢へのジャンプは、当時の藤本の切実な感情そのものではないのか。
『人魚ラプソディ』は、一見すると藤本らしくない、ロマンティック過ぎるストーリーだ。海辺の港の近くに住んでいる少年が、海の中に沈んでいるピアノを弾きに潜り、そこで知り合った人魚と交流し、ピアノを教えることになるというファンタジーである。学校をサボり、海の中でピアノを弾き続ける少年の姿は、通常は生産性のないものとみなされる漫画に没頭する作者の行為を意識させる。そして、そこに未知の共感者が現れるといった構図は、『佐々木くんが銃弾止めた』と同様に、自分の才能や夢を真に理解してくれる存在を希求する思いが投影されていると考えるのが自然だろう。
この種の感情は、藤本タツキだけのものではない。例えば小説家・村上春樹は、このようなことを登場人物に言わせている。「理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っている」……この、諦観ともペシミズムともいえる感覚は、ある種の作家が否応なく通る道だと考えられる。だが、ある種の人々と心からの交流を拒む一方で、“理解しあいたい”という強烈な気持ちも持っている。
『予言のナユタ』は、その後の『チェンソーマン』を直接的に予感させる内容。藤本が感じていただろう疎外感や孤立感が、『人魚ラプソディ』と同じく、エンターテインメント的な枠組みのなかで表現し直されている。自我の世界にとどまっていたものが、より“現実”を感じさせる構築的な世界に広がっていき、一般の読者が感情移入しやすい娯楽的な枠組みへと踏み出している。つまりここでは、かつての“のっぴきならない感情”が整理され、ヒットする漫画への結節点へと向かって試行錯誤している様子が見て取れるのだ。
このようにマイノリティの疎外感の表現を描きながら、そういった存在が周囲の圧力に抵抗しながらも、社会との距離がなかなか縮まらないことも、藤本作品の基本的な特徴だといえる。孤独な精神をキャラクターに投影しながらも、完全に幸福な状況を作らず、欠けたものを欠けたままで、その代償を引き受けさせる。これは、藤本が肌で感じ取ってきた世界の実感なのだろう。これはおそらく今後も作家自身の心の傷として、同時に財産として、彼の今後の作品にも適用される要素となりそうだ。
連載作品『ファイアパンチ』を経た藤本は、『妹の姉』で学校という舞台へと帰還する。『ルックバック』にも内容的な繋がりを見せるこの作品では、自身のヌードが描かれた絵画が学校に掲示されるというゴシップ的なところからスタートする。そこには、『庭には二羽ニワトリがいた。』で偽装した姿とは対照的に、むしろ自身の全てを学校という危険なフィールドでさらけ出すという構図が描かれる。この挑戦的な姿勢に、17-26間の、羞恥心を超えた作家的な成長が感じられるのである。それは、連載中の『チェンソーマン』本編で主人公が、悲劇のなかで絶叫する「ぜんぶチンチンで考えてるっ!!」という絶望的な名言(?)へと連なっていくものだ。
■配信情報
『藤本タツキ 17-26』
Prime Videoにて独占配信中
©藤本タツキ/集英社・「藤本タツキ 17-26」製作委員会





















