押井守が孵化させたアニメ=anime成熟の歩み 『天使のたまご』が生成した“原点”とは?

アニメートなきアニメ

「Sora 2」を象徴として、近年のAIは動画の装飾的機能を補助するばかりか、動画そのものをかなりの精度で生み出すまでに至っている。AIが自動生成するそれは従来のアニメーションと何が違うのか? 一見すればそれらは宮﨑駿なり新海誠なり、あらゆる作風を(権利を踏みにじりながら)容易に模倣し、ほとんど区別がつかないものとして存在しはじめているように思える。
しかし両者には、「アニメート」が介在するかどうかにおいて決定的な違いがあるだろう。
AIが自動生成する動画においては、従来のアニメーションならばどのような形態であれ携えていたはずの「静止物をいかに動かすか=アニメートするか」という発想は消滅している。2Dアニメーションはもちろん、3Dアニメーションにおけるモデルなりクレイアニメーションにおける粘土なり、どのようなアニメーションであってもそれぞれが「アニメートすべき静止物」を持っていたはずだ。静止物の作成とそのアニメートに膨大な労力がかかることは、アニメーションのメディア的条件でさえなかったか。
対してAIが生成するアニメーションでは、静止物のアニメートは自動化される。あるいは自動化どころか静止物を経由せず、端的な動画として誕生することさえある。いわば「アニメートなきアニメ」だ。
そしてアニメートが失われてしまうとき、二つの問題が生じるだろう。一つはすでに問題視されているように、アニメーターの技術が失われるのではないかということだ。アニメーターの、人間の手による芸術が、機械に代替されてしまうのではないかという危惧が一方にある。
もう一つの問題は情報リテラシーに関わる。かつてであれば「現実」がどのように「構築=アニメート」されているかに自覚的であろうと務める態度が、倫理として機能しえた。押井が問いかけてきたように、「現実」と認識されるものはもしかしたらアニメートされた結果としての構築物に過ぎないかもしれない。この疑いがフェイクに対する倫理たりえた。
ところがアニメートそのものが失われるとき、このリテラシーのあり方は揺らいでしまう。なぜならAIの創作物が「フェイク」として糾弾される理由は、作為的に構築されているからではなく、むしろ構築がなされて「いない」ことにあるからだ。
かつてであれば、「手付かずの現実」なるものがあり、それに対して「人間が構築した虚構」という構図がありえた。しかし今日の創作物の「真偽」の判定においては、手付かずの自動生成こそが「フェイク」であり、人間のアニメート=構築がきちんとなされていることは、むしろ相対的に「リアル」の証しとして機能しさえする。
この事態への応答として、一方には非人間の生み出す営みに警鐘を鳴らし、真実は人間同士が構築した範囲で定められるという、ヒューマニズムと相関主義の復古がある。もう一方には、手付かずのオートメーションを肯定的に捉え、新たな自然の誕生として歓迎するテクノ主義がある。
福嶋亮大は『メディアが人間である』(blueprint、2025年)において、この両者からは慎重に距離を置き、第三の道への探求の可能性を示した。あるいはAIが出力する創作物にも当然技術の差はあるだろうが、それらはひとまず置いておこう。
とにもかくにも、かつての「押井やマノヴィッチの主張は、映像の『人工性』(インデックス性の希薄化)に向けられていたが、今日の争点はむしろ、画像や動画の制作における『自動性』に関わっている」(※8)。
「アニメート」から「アニメ化」へ

AIアニメーションは「アニメート」を消滅させる。もはや古典的な意味で「アニメーション」ではないかもしれないが、にもかかわらず「アニメ」として生成・流通され続けており、アニメという言葉の定義自体が揺らいでいる。
しかしそもそもAIの発展にかかわらず、「アニメ」という言葉の定義は非常にあいまいだ。
単に「アニメーション」の略語として使われているわけではないということは間違いなく、端的に「日本の商業アニメーションっぽい何か」として、ぼんやりと流布している。
現に英語ではanimationと区別して、日本の商業アニメーションを指して「anime」という単語が別に存在する。中国語でも、「二次元」といえばアニメーションであれゲームであれVTuberであれ日本のオタクカルチャー全般を指しており、概ね「anime」が指す範囲と重なるだろう。またポピュラーミュージックにおいては、いわゆる「アニソン」はもはや特定のアニメーション作品の主題歌を意味していない。漠然と「アニメの主題歌で使われそうな曲調」が半ばジャンルそのものを指す言葉として浮遊しはじめている。
上海アニメイベントに40万人 日中アーティストコラボなど激アツのBML2025に潜入
7月11日〜13日、上海国家会展中心にてライブイベント「BILIBILI MACRO LINK 2025(BML2025)」が開…どこにもその実体は見つけられないが、「アニメ(anime)」と言ったときに生じる共通認識のような何かがある。この認識がいまだ有効だとすれば、そこには「アニメート」の運動の快楽とは別種の力学が働いてはいないだろうか。奇妙な言い方をすれば、「アニメート」が消滅してもなお「アニメ化」の力は残り続け、その侵食は肥大しつづけるのではないか。

このアニメが持つ力が何かといえば、ひとまずは「暴力的なまでの“デフォルメ”の力」としておこう。アニメ化の特徴といえば、抽象化であり、誇張であり、パロディであり、シミュレーションであり、メディア越境的であり、幼児化であり、標準化であり、単純化だ。
「アニメート」が静止物に生命を吹き込み、運動を与え、リアリズムを構築する試みだとすれば、「アニメ化」はむしろ、対象をデフォルメし尽くし、子供じみた姿に変貌させ、生命らしさを剥奪していく。おそらくアニメは、この矛盾を両立させることで奇妙な進化を辿ってきた。
いまAIがおこなっていることは、アニメーションからアニメートの手触りを剥奪すること——いわば「アニメーションのアニメ化」であり、それは何やら無機質なものとして蠢いており、その負の側面が目立っている。
だがおそらくアニメを愛好している地球人は、このデフォルメ作用に何かしらの肯定性を見出してきた。いったいそれはどのようにして探求されればいいのだろうか? もう一度押井守に立ち返ろう。
あなたはだあれ?

押井の達成は、自身のアニメーションの中でレンズをアニメート=映画をシミュレートしたことにあった。押井が評価を確立するまでの1980年〜1990年代、CG技術が飛躍的に発展したのと機を一にするように、「すべての映画はアニメになる」のテーゼの実践者であり続けた。それはアニメーションによって「先行メディア」たる映画の条件を再定義する試みであり、アニメーションを映画に近づけることで、同時に映画のほうもアニメーションに接近していたことを暴くことでもあった。
押井は虚構を「アニメート」しリアリズムを構築するとともに、現実としての映画をデフォルメし尽くす「アニメ化」、その両方をおこなっていた。押井の世界観がこの両者によって成り立っていたのだとすれば、おそらくこれまで前者の達成ばかりが語られ、後者のポテンシャルは十分に掘り下げられていない。押井はアニメーションを現実のように見せたのと同時に、現実のほうをデフォルメし尽くしてもいた。だからこそ押井の作品には現実と虚構の境界をめぐる認識論的テーマが頻出するのであって、単に虚構を一方的に現実らしく近づけたのではない。
この論点の足がかりになりうる作品こそ、やはり『天使のたまご』だろう。押井が「レンズ」の仮構に辿り着く直前、リアリズムのアニメートの実践者として孵化した瞬間、「アニメート」と「アニメ化」がまだ均衡を保っていた一瞬、押井自身が「ここから始まった」(※10)と述べるあの世界だ。
あの世界の「天使のたまご」が少年に破壊されたとき、押井のアニメーションは現実のような手触りとともに成熟の道を歩み始めた。
ところが肝心の少年自身はあの世界に取り残され、「カメラ」はむしろ少年から遠ざかっていく。物語は、あの世界の全貌が見渡せるほどの極端なロングショットで幕を閉じる。
成熟を志した少年のほうがむしろ母胎に閉じ込められる。アニメートへの意志は、逆説的に現実のデフォルメを内包する。たまごを打ち砕く殺害は、性交がほのめかされる一晩の間に描かれる。
「あなたはだあれ?」他者としての少年に、少女は尋ねる。この問いはいま、外部の他者とともに、内部に両義性を保持し続ける力学の正体に対しても向けられるべきだろう。
4Kリマスター版のポスタービジュアルとして天野が描き下ろしたのは、少年のほうである。
参照
※1.筆者インタビューより(https://realsound.jp/movie/2025/11/post-2219545.html)。
※2.『天使のたまご 絵コンテ集』(復刊ドットコム、2013年)p.172
※3.同上
※4. https://realsound.jp/movie/2025/08/post-2124729.html
※5.セルアニメにおいては絵が物理的に「撮影」されていたため、その意味ではアニメートされる対象は最初から「被写体」ではあった。ただしそれはあくまでもアニメーションの制作者がカメラマンとして振る舞うという意味であって、フィクションの世界内にレンズが仮構されるのとは異なる。
※6.宇野常寛『母性のディストピア』(集英社、2017年)
※7.レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語——デジタル時代のアート、デザイン、映画』(ちくま学芸文庫、2023年)p.621
※8.マノヴィッチ、前掲書(2023年)、p.611。福嶋亮大は『メディアが人間である』(blueprint、2025年)において同様の指摘から自身のポストメディア論を展開している。
※9.福嶋、前掲書(2025年)、p.250
※10.筆者インタビューより(https://realsound.jp/movie/2025/11/post-2219545.html)。
参考資料
『THE ART OF 天使のたまご 増補改訂復刻版』(徳間書店、2025)
「石岡良治の最強伝説 vol.89 押井守」(https://www.nicovideo.jp/watch/so45432577)
宇野常寛『母性のディストピア』(集英社、2017年)
[特別インタビュー:アニメと戦争]押井守「『パトレイバー2』再考——すべてのテロリストは演出家である」(『PLANETS vol.10』PLANETS、2017年所収)
■公開情報
『天使のたまご 4Kリマスター』
ドルビーシネマ先行公開中、11月21日(金)より全国順次公開
キャスト:根津甚八(少年役)、兵藤まこ(少女役)
脚本・監督:押井守
アートディレクション:天野喜孝
原案:押井守、天野喜孝(アニメージュ文庫『天使のたまご』より)
製作:徳間康快
企画:山下辰巳、尾形英夫
プロデューサー:三浦光紀、和田豊、小林正夫、長谷川洋
美術監督・レイアウト監修:小林七郎
作画監督:名倉靖博
作曲:菅野由弘
音楽監督:菅野由弘
音響監督:斯波重治
撮影監督:杉村重郎
編集:森田清次
アニメーション制作:スタジオディーン
提供:徳間書店
配給:ポニーキャニオン
海外セールス:Goodfellas Animation
©YOSHITAKA AMANO ©押井守・天野喜孝・徳間書店・徳間ジャパンコミュニケーションズ
公式サイト:angelsegg-anime.com
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