綾野剛、またもキャリアを更新 三池崇史監督との再タッグ作『でっちあげ』は真の勝負作に

綾野剛、『でっちあげ』でキャリアを更新

 俳優・綾野剛に、これまでどれほど泣かされてきたか分からない。涙を誘うような感動的なシーンを演じているときはもちろんだが、私の場合は思いがけぬ瞬間に感動の嵐がやってくる。たとえばそれは、『最後まで行く』(2023年)で彼が表情筋をピクつかせているときであり、『ラストマイル』(2024年)の世界に登場するなり快走してみせるときであり、『まる』(2024年)で主人公に対して語りかけるように独白するときなどである。

 優れた俳優というのは、アーティストであり、クリエイターであり、そしてアスリートでもあると私は考えているのだが、俳優・綾野剛はまさにそのような存在のひとりだ。主演最新作である『でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男』には、キャリアを更新し続ける彼の現時点における最良のパフォーマンスが刻み込まれている。未見の方は一度このページから離れ、すぐに劇場に駆け込んでいただきたい。

映画『でっちあげ』【なぜそれを信じますか編】|6月27日(金)全国公開

 この映画『でっちあげ〜殺人教師と呼ばれた男』(以下、『でっちあげ』)は、いまから20年以上前に福岡市で起きた体罰事件を追ったルポルタージュ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』を映画化したものだ。小学校の教師・薮下誠一(綾野剛)が、教え子である氷室拓翔(三浦綺羅)に対して差別的な扱いをしたうえに酷い体罰を与えたとして、拓翔の母の律子(柴咲コウ)から告発されるのが物語の大筋になっている。彼女の告発内容によれば、薮下が行ったのは体罰のレベルをはるかに超えたものであり、拓翔の精神状態は極めて危険な状態にあるのだという。

 タイトルからしてこれが“でっちあげ”なのだと観客の多くが理解するいっぽうで、律子の発言を信じてしまいそうになった方は少なくないのではないか。彼女の告発内容には大きな説得力があるため、戸惑ってしまうのだ。なぜそのようなことが起こるのか。それは、律子が告発する悪魔のような薮下の姿を、綾野が恐ろしいレベルで体現しているからである。

 悪魔のような薮下は、児童たちを怒鳴り散らすタイプではない。物腰の柔らかな人物で、つねに微笑を浮かべている。口調も穏やかだ。それでいて、教室内外で拓翔に対して平然と暴力を振るう。引きちぎれるほどの強さで鼻をつまんだり、両耳を引っ張って持ち上げたり、ランドセルをゴミ箱に叩きつけたり……。まだ幼い子どもたちにとって、トラウマになりそうなものばかりである。これを私たちは劇場というある種の安全地帯から眺めることになるわけだが、それでも慄然としてしまう。いくら演技とはいえ、あまりにも恐ろしい。これを目の前にしていた子役たちが心配になるほどである。

 しかし綾野に慄然とさせられるのは、この恐ろしい怪演だけではない。タイトルに「でっちあげ」とあるのだから、前段に記した薮下誠一の姿は真実のものではない。実際の彼は物腰が柔らかく、つねに微笑を浮かべていて、口調も穏やかだ。決して子どもたちに対して暴力を振るったりなどしない。絵に描いたような好人物である。同じ俳優が演じているとは思えないほどの綾野の芝居の振れ幅に慄然としてしまう。“でっちあげ”によって多くを奪われた彼は日に日に憔悴していくのだが、この変化の過程も痛々しい。軽くつつけばその場で崩れ落ち、泣き出してしまいそうだ。それほどまでに薮下は弱りきっていき、やがてその表情からも声からも覇気が消えていく。危険な暴力教師と、いわれのない罪で弱っていく小市民ーー綾野はこのふたつのキャラクターを、ひとつの作品内で演じ分けているのだ。この俳優はいったいどれだけの表情を持っているというのか。

 綾野がアーティストであり、クリエイターであり、そしてアスリートでもあるという私の持論は、この『でっちあげ』に収められた彼のパフォーマンスを目の当たりにした方々ならば理解してくださることだろう。加害者と被害者を演じ分ける表現力、主演俳優として特異な空間を創出する力、そして、演技を展開していくうえで必要な瞬発力と持久力。これらのすべてが俳優・綾野剛の演技には感じられるのだ。

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