ベルトラン・ボネロ『けものがいる』はただのSFではない 既存の作品と一線を画す独自性

鮮烈な感性によって、多くの観客の心理や価値観を揺さぶってきた、フランスの鬼才、ベルトラン・ボネロ監督。その最新作にして、フランスを代表する俳優レア・セドゥが主演す
る『けものがいる』は、圧倒的に挑発的なディストピアSF映画だ。複数の時代をめぐる奇
想天外で複雑な物語は、観客の脳を絶えず刺激し、思考や精神を試してくるだろう。
ここではそんな、ただならぬ本作『けものがいる』が放つ、不穏な魅力に迫りたいと思う。そして、本作を読み解くためのヒントを提供しながら、既存のさまざまなSF作品と比較することで、相対的に作品の独自性を明らかにしていきたい。
この映画の幕開けでは、背景合成用の「グリーンスクリーン」の前で、レア・セドゥが演
技している様子が映し出される。そこで動きを指示する監督の声は、ボネロ監督自身のもの
だ。そう、本作はメタ的なシーンからスタートするのである。これだけでも、一筋縄ではい
かない作品だという雰囲気がみなぎっている。
ナイフを手に持って、何者かの襲撃に怯えているような素振りを見せるセドゥは、何かを
見つけて大声をあげる演技をする。すると、彼女が映った映像は停止して、その画像がデジ
タル的な粒子に置き換わり、奇妙なかたちへと崩れ、流れてゆく。そこに「La Bête(けも
の)」という、原題のタイトルが被さるのだ。
この演出は、画像、映像、音声のエラー(グリッチ)を故意に発生させることに一種の美
学を見出す美術ジャンル「グリッチアート」の手法だといえる。「グリッチアート」は、単
にエラーの“不完全さ”や“失敗”を面白がる部分もあるが、そこにはアウトサイダーの目線に
よる、“管理される世界”への反発や、“テクノロジーがもたらす非人間性”への皮肉というメ
ッセージを含む場合がある。本作の冒頭で、こういった手法が駆使されていることは、テー
マにとって非常に重要なので、ぜひ覚えておきたいところだ。
ちなみに、「グリッチ」的な演出といえば、緑色に光る“デジタルコード”の雨のヴィジュ
アルが印象的な、『マトリックス』シリーズを想起させるところがある。バーチャル世界を
ハックすることで、物理法則を歪ませたり操作するという試みが、人類の人間性を奪還する
という戦いの文脈で使用されたことは、まさに「グリッチアート」が内包する潜在的テーマ
と同期していたといえるだろう。

本作『けものがいる』の舞台として設定されている世界は3つだ。それが、AIが管理する
2044年の近未来都市。1910年の大洪水に見舞われたパリ。そして、2014年のロサンゼルス
だ。唐突に時代が移り変わる編集は、中世と現代を行き来する、ピエル・パオロ・パゾリー
ニ監督の『豚小屋』(1968年)を想起させるところもある。それぞれの時代では、ガブリ
エル(レア・セドゥ)という女性と、ルイ(ジョージ・マッケイ)という男性が、それぞれ
に運命的な出会いを繰り返す。
AIが社会を管理する2044年のパリでは、ガブリエルがAIの手引きによって、自身のDNA
を“浄化”しようとしていた。ガブリエルが目指す、責任ある職に就くためには、感情を消去
し、生きるロボットのような存在にならなくてはならないのだ。AIに感情がないように、人間にも感情がなければ確かに、真に“合理的”に生きられるのかもしれない。ちなみに、ここ
でAIの声を演じているのは、本作の共同プロデューサーである、グザヴィエ・ドランなのだ
という。
DNAを浄化するプロセスのなかで、ガブリエルは遺伝子を通じて、見たことのないはず
の過去を追体験していく。これは、ゲームシリーズ『アサシン クリード』の「アニムス」
に近い、精密な装置を人体に繋ぐことで利用するシステムだといえるだろう。1910年のパ
リに意識を飛ばしたガブリエルは、その時代の「ガブリエル」として、一時、人生を生き直
すのである。
生体の意識とデジタル情報の融合といえば、先述した『マトリックス』に大きな影響を与
えた、士郎正宗のSFコミックを原作とする『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995
年)が、映像分野において大きな存在感を示している。しかし本作『けものがいる』は、デ
ジタル世界に投影した意識が、DNAの記憶を読んでいくという、より主観的な体験を観客
に共有させるという意味で、興味深いところなのではないか。
ちなみに、このデジタルと記憶による、一種の“タイムスリップ”に、その時代の占い師が
唯一、干渉できる立場にあり、双方向のコミュニケーションが成立しているというのも面白
い。これも、『アサシン クリード ヴァルハラ』などの巫女や幻視などにおける、オカルト
的な感覚とデジタル世界との繋がりを想起させるものだ。

1910年において、ガブリエルは著名なピアニストだ。経済力はあるが、熱烈な愛情を感
じることのできない人物を夫に持ち、満たされない思いを抱えている。そこに現れるのが、
青年ルイである。彼女はルイの不思議な魅力に惹かれていくが、どうしても夫を裏切ること
ができず、貞節を守ろうとする。だが、そんな二人に、想像を超えた危機が訪れる……。35ミリフィルムで撮られた、アナログな質感と、コスチュームプレイ、そして“水に沈みゆくパリ”のイメージが、恐ろしくもロマンティックなパートでもある。
2014年のロサンゼルスでのガブリエルは、俳優を志望し、小さなCMの仕事やモデル業を
こなしたり、豪邸の留守を守るアルバイトをしている女性だ。彼女は、大きな成功をつかめ
ないまま若さを浪費しているという思いにとらわれ、人生を生きる意味を失いかけている。
そして、その時代のルイは、孤独な動画配信者だ。彼は、いわゆる「インセル(日本でい
う“非モテ”、“弱者男性”)」であり、自分を“選ばない”女性全般に憎悪を燃やし、自分の番組
で怒りを表現する。ここでの二人の関係は、さらに危うく、よりスリリングなやり取りが発
生することとなる。このパートでは、情報が氾濫し、多くの人々が社会的なステータスを追
い求めるなかで、それを得られなかった者たちの孤立感や劣等感を、実際の事件をモチーフ
にしながら描いている。

しかし、これらの過去は、2044年のガブリエルにとって、何を意味することになるのだ
ろうか。その謎を解く鍵が、本作の原作となった、イギリスの文豪ヘンリー・ジェイムズの
中編小説『密林の獣』である。
「いつか、自分を襲うおそろしい運命が待っている……」という予感を信じながら生きて
いる男が主人公の、この小説において、例えば、密林から突如現れて人を襲い、命を奪うこ
ともあるだろう“けもの”が象徴しているのは、“人生を終わらせる存在”のことである。しか
し、“けもの”を恐れるあまり、生きる楽しみや感情の高まりを忘れてしまえば、それもある
意味で人生を無駄にしているのではないのか。そう考えれば、そのこと自体もまた、“けも
の”だとはいえないか。これが、『密林の獣』の問いかける問題だ。




















