レア・セドゥが作家に愛される理由 『007』ボンドガールにも通じる孤独ゆえの新しさ

『007』レア・セドゥが作家に愛される理由

マドレーヌ・スワンの向こう見ずな知性

「ブリジット・バルドー、ジュリエット・ビノシュ、ケイト・モス。そして時にはその3人の要素が同時に現れる」(ティエリー・フレモー:カンヌ国際映画祭ディレクター)※1

 レア・セドゥを評したティエリー・フレモーの言葉は、2021年の第74回カンヌ国際映画祭で4本もの出演作が出品され、いまやフランスを代表する俳優となったレア・セドゥの資質を適確に表している。レア・セドゥは、ブリジット・バルドーのように華麗な無邪気さで画面の隅から隅まで闊歩する。また、ジュリエット・ビノシュのように爆発的かつ動物的な感性で観客を魅了する。そしてケイト・モスのように少女的でありながら中性的な特別な被写体として、その肖像をスクリーンに刻みつける。そのすべてを同時にスクリーンに発露することができる稀有な存在。

 かつてレオス・カラックスは『汚れた血』(1986年)と『ポンヌフの恋人』(1991年)で、前者をジュリエット・ビノシュの抑制、後者をジュリエット・ビノシュの解放として、ジュリエット・ビノシュの持つ「破格」の資質に対して表裏の作品関係として位置付けた。レア・セドゥのスタート地点には、意識的にせよ無意識的にせよ、その両方の資質が同時にスクリーンに発露されている。筆者がレア・セドゥを発見したのは、2009年のフランス映画祭で上映された『美しいひと』(クリストフ・オノレ監督/2008年)に遡るが、そのときに感じた鮮烈な「新しさ」は、昨日のことのように思い出せる。レア・セドゥは初めから、向こう見ずな知性を持っていた。スクリーンでのレア・セドゥは、とても勝ち気なまなざしで誰からの支配も拒否するが、それと同時に彼女の演じるヒロインは、いとも簡単に画面に感情の乱調を引き起こすことができる。

『たかが世界の終わり』(c)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

 これまで共に仕事をしてきた映画作家は、ウェス・アンダーソン、クエンティン・タランティーノ、アルノー・デプレシャン、ベルトラン・ボネロ、アブデラティフ・ケシシュ、ラウル・ルイス、ブノワ・ジャコ、グザヴィエ・ドラン……。これら豪華な映画作家たちが、誰一人として映画史に残された特定の俳優のイメージをレア・セドゥに重ね合わせなかったことが、レア・セドゥの「新しさ」を証明している。レア・セドゥは、彼女自身がアイコンになることよりも、演じるキャラクター、作り出すイメージ自体にアイコニックな性質を自ずと宿していく。

 名実ともに転機作となった『アデル、ブルーは熱い色』(アブラティフ・ケシシュ監督/2013年)で演じたエマに宿っているものは、レア・セドゥとしてのカリスマ性よりも、レア・セドゥが演じる青い髪をしたエマというキャラクターのカリスマ性だ。

 レア・セドゥの演じるキャラクターは、真白いキャンパスの上で透かし絵のように浮かび上がる。『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(キャリー・ジョージ・フクナガ監督/2021年)で、氷のガラスに覆われた湖に閉じ込められた幼少期のマドレーヌ・スワンが、苦しそうに海中から這いあがってくる現在のマドレーヌ・スワン(レア・セドゥ)にモンタージュされるとき、そこには語りにおけるフラッシュバックの効果以上に、二度と消し去ることができないイメージに対する取り返しのつかなさが、マドレーヌ・スワンの身体に刻まれている。

令嬢と孤児

『007 スペクター』SPECTRE (c) 2015 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc., Danjaq, LLC and Columbia Pictures Industries, Inc. All rights reserved

 祖父はフランスの大手映画製作会社パテ社の会長、叔父は同じく大手映画製作会社ゴーモン社の会長と、フランス映画業界の令嬢、いわばフランス映画の申し子のような環境で育ったにも関わらず、レア・セドゥは小さい頃から常に疎外感を感じていたという。

「私は文化的な家庭の出身ですが、同時に子供の頃は完全に孤立していました。不適合者でした。学校の成績はとても悪く、いつも自分が孤児であるかのように感じていましたし、自分がどの枠にも当てはまらないと思っていました」※1

 レア・セドゥの母親は、モーリス・ピアラ監督の『愛の記念に』(1983年)に出演している。ただし、娘の仕事に注意が払われることはなく、トム・クルーズがオーディションなしでレア・セドゥの出演を決めた『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード監督/2011年)の撮影準備段階に至るまで、娘が俳優業をしていることすら知らなかったと、レア・セドゥは語っている。

 あるときはブルジョア、あるときは孤児。バックグラウンドとしての令嬢と孤児を行き交うイメージは、そのままレア・セドゥのフィルモグラフィー全体に反映されている。レア・セドゥは、特にフィルモグラフィーの初期において、括弧つきの「孤児」を演じることで、如実に評価を上げていった。

 最初のブレイクとなったクリストフ・オノレ監督による『美しいひと』でヒロインの学生を演じるレア・セドゥは、ラフに乱れた髪のあり方と相俟って、ミステリアスな印象を強く残す。学校生活の中にあって、明らかに誰の色とも混ざりあっていないこのヒロインに、誰もが魅了されてしまう。この作品のポスターデザインにもなったジュニー(レア・セドゥ)の美しい写真が、すべてを物語っている。教師であるヌムール(ルイ・ガレル)は、教え子として接してきたジュニーのミステリアスな写真が決定打となり、ついに理性を抑えられなくなっていく。

 ヌムールの心はあっという間に壊れていく。物事には常に二つの見方があることを議論する授業の中で、男子生徒の一人が女性教師に向けて問いかける挑発的な言葉が、この作品のテーマをよく表している。

生徒「恋人を心から愛している? 彼を同じくらい憎めると思ったことは?」
教師「ない」
生徒「じゃあ同じことだ。常に二つの見方をするのはバカらしい」

 授業後に「賢くて生意気でセクシーな子ね。鼻をへし折ってやりたい」と、この男子生徒を称賛する女性教師は、ヌムールの恋人でもある。この言葉は、そのままジュニーに魅せられ崩壊していくヌムール自身に跳ね返ってくる。ヌムールは、“胃はキリキリ痛むし、気分は高揚している。足はガクガク”になるほど、ジュニーに夢中になってしまう。そしてヌムールは、初めから失恋していることを知っている。

 ヌムールの授業で、レコードから流れてくる音楽にジュニーが突然泣き始めるシーンがある。このシーンを脚本に書き起こすとすれば、「授業中にマリア・カラスの歌を聞いて、ジュニーは泣く」という、たった一行の文でしかない。だが、レア・セドゥはこのたった一行の文の中で、単数の感情の放出に収まらない、こじれた感情をこちらに放ってくる。というよりも、ジュニー=レア・セドゥというキャンパスの上に、観客がいくつもの感情で色づけていくことができる、と言った方が正しいだろうか。レア・セドゥがどこまで自分の資質に意識的だったのかは分からないが、クリストフ・オノレは、このときのレア・セドゥに魅せられ、なかなかカットをかけられなかったのかもしれない。そう思ってしまうくらい、いつまでも見ていたい沈黙のショットだ。レア・セドゥの泣き顔を、現代映画のもっとも美しい泣き顔だと思える、そのルーツがここにはある。

 また、『美しいひと』のレア・セドゥの写真が持っている威力は、ウディ・アレン監督が『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)で、レア・セドゥの写真だけを決め手に出演を決めたというエピソードとも共振することになる。

 レベッカ・ズロトヴスキ監督の『美しき棘』(2010年)では、どこまでもレア・セドゥに密着した撮り方が施されている。万引きで捕まり、衣服を脱ぐことを強要される冒頭のシーンから、生々しさがフィルムの全体に漲っている。レア・セドゥの言う「孤児」の資質が刻まれているという意味で、本作は初期の重要作といえよう。ここではレア・セドゥ演じるプリューデンスの、夜の光に照らされたブロンドの髪や、ザクザクと夜の闇を歩んでいく足音が、忘れがたくフィルムに刻まれている。17歳の孤独なヒロインは、闇の中に無防備なブロンドの髪を塗しながら、暴力的なまでにゴツゴツとした行き場のない感情をぶつける。本作に感銘を受けたナタリー・ポートマンは、リリー・ローズ・デップと共にレベッカ・ズロトヴスキ監督と『プラネタリウム』(2016年)を制作することになる。

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