安田顕の平賀源内はあまりに凄すぎた 『べらぼう』第1章の締めにふさわしい最高の名勝負

1780年、平賀源内は獄中死を遂げる。エレキテルの復元から4年後のことだった。史実として知られている平賀源内の最期。しかし、文字から受け取る印象とは全く違う気持ちにさせられた。それは、生身の人間が演じる意味をこれでもかと見せつけられるような時間だった。
NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第16回「さらば源内、見立は蓬莱」というタイトルからも、源内の最期が描かれるとは覚悟をしていた。だが、これほど壮絶なものになるとは。思わず鑑賞後、呆然として今もなおその余韻が冷めない。

蔦重(横浜流星)が迷ったとき、いつも突破口を見出してくれた。書を持ってこの世を耕し、この日の本をもっともっと豊かにする。蔦重のビジョンを形にしたような「耕書堂」という店名も、源内がつけてくれたものだ。自由を愛し、いつも明るく人々を巻き込んできた。その話の面白さは、物事の芯をつく洞察力と頭の回転の速さがあったから。学者、事業家、コピーライター、発明家、作家……そんな一般的な肩書きには収まりきらない魅力と才覚を持つ男に、江戸の人々は夢中になったはずだ。その説得力を高めたのが、安田顕の演技力だ。
誰もが好きにならずにはいられない平賀源内を現代に蘇らせる。時の老中、田沼意次(渡辺謙)まで魅了した男を、安田は悠々と演じた。「俺は男ひとすじよ」なんて自身のセクシュアリティをオープンに語る姿も、令和の世にすんなり溶け込んでいたように思う。

そんなどこか掴みどころのないフランクさを漂わせながらも、花魁・花の井(小芝風花)の前では、かつてともに過ごした想い人の二代目・瀬川菊之丞との日々を思い出す人間味溢れる姿も。その表情には、見ているこちらの胸まで押しつぶされそうになるほど切ない気持ちになった。
かと思えば、意次とともに金が世の中を動かす時代を先読みして、あらゆる事業に着手する強欲な一面もあった。意次のために汚い手も使うことも一度や二度ではなかっただろう。フットワーク軽く器用にミッションをこなしていく源内を、意次は頼もしく思ったはず。お互いに裏切れば終わる、そんな緊張感のある絆から、いつしか本音を話せる数少ない友人のような存在になっていったのではないだろうか。

源内は、きっと孤独ではなかったと思う。だが、その晩年は生活が荒れていったという。そして、最終的には乱心状態で人を殺めて投獄されるという末路を遂げる。その分岐点はどこにあったのか。チャンスがあれば、物怖じせずに飛びついてきたが、もちろんチャレンジの数だけ失敗もある。思うような結果が得られないことも少なくなかった。
意次をはじめ多くの人と金を動かした鉱山事業は挫折し、何年もかけて復元させたエレキテルは偽物だとして世間から見放された。若いときにはそうした挫折も糧にして他のことにチャレンジできた。しかし、年々彼の中に「何も成し遂げられていない」という自責の念が募っていったように思う。
讃岐高松藩の蔵番として生涯を終える人生もあった。だが、その家督を妹婿に譲って、一旗揚げようと江戸へとやってきた源内。現代を生きる私たちの目から見れば、十分な活躍をしてきたように感じるが、他者の評価と自分自身の肯定感というのは必ずしも一致するものではなく……。満たされない何かに心が蝕まれていくことは、誰にだって起こり得ることだ。「どうして、あの人が!?」という話は、決して珍しいことではない。運命の落とし穴はいつもすぐそこで口を開けて待っている。

あんなにも愛らしく笑う源内の表情からは光が消えていく。落ち窪んだ目に、血走る白眼。ひと目見て、ずっと心の休まらない日々を過ごしていることがうかがえる表情に、蔦重も意次もゾッとしたに違いない。日に日に私たちが愛した源内ではなくなっていくことが目に見えてわかる。そんな恩人の変わりようになんとかしようと意次に取り次ぐ蔦重。そして、堕ちていく友を救いたい気持ちは山々だが、「死を呼ぶ手袋」の秘密を知る源内との距離感に悩み自由に動けない苦しい立場の意次。きっと2人は痛感したはずだ、今こそ彼にどうしたらいいのかと問いたい、と。こんなピンチのときこそ2人は、源内に相談してきたのだから。
もはや源内の耳には彼らの声よりも、自分を苛む幻聴ばかりが響く。とめどなく流れる涙と鼻水は、まるで血のように見えるほど。そんな痛々しくもがき苦しむ姿に、私たちも目を背けたくなってしまったのだから、きっと2人はそれ以上だったはず。正気を失い壊れゆく源内と、悔し悲しむ意次に、怒り嘆く蔦重。『べらぼう』第16回は、第1章のクライマックスにふさわしく、安田、渡辺、横浜の3人が、真剣の代わりに魂の演技でぶつかり合う殺陣のような展開だった。