『チ。』ノヴァクは本当に“悪役”だったのか? ラファウとの対話に見る“肯定”の意義

『チ。』ノヴァクは本当に悪役だったのか?

 NHK総合にて放送中のTVアニメ『チ。 ―地球の運動について―』(以下、『チ。』)がいよいよ最終回を迎える。この作品は地動説の証明をめぐる悠久の時の流れ、その歴史を(フィクションに基づいて)主人公を交代させながら紡いでいく一代叙事詩である。いや、叙事詩というにはあまりにも短く局所的で、かつ「歴史の登場人物ではない」無名の者たちの物語かもしれない。それでも私たち視聴者に訴えかけるこの「感動」の正体、その源泉は一体何なのだろうか。それは紛れもない「肯定」がこの作品の根底に脈々と流れているからである。

「不正解は無意味を意味しない」

 思えば、第2話で異端者であるフベルトが発したこの言葉に全てが込められていると言っても過言ではない。これほど胸を打ち、励まされる「肯定」の言葉を私は知らない。不正解、すなわち人生で必ず起こるであろう失敗や勘違い、それら全てはひとりの私的な人生においても、公的な人類の歴史においても無意味(無駄)ではないのである。言い換えるならば、「正解のみが意味を成す、のではない」。むしろ私たち一人一人の私的人生の集合体が人類の歴史であり、それらはただ「流されるまま」「偶然に」受け継がれ、引き渡され、託された、のである。これは何かを成し遂げ歴史に名を残すような個人の達成とは明らかに一線を画す。何者でもない私(たち)をそっと肯定してくれるかのようである。

 もちろん各々のキャラクターに確固たる信念や信仰、感動の源泉があるものの、その信念や信仰でさえ紡がれてきた歴史や誰かの想いを知らず知らずのうちに継承しているのである。この現象は「文字はまるで奇蹟」と言ったヨレンタと、「持たざる者」オクジーが文字を覚え書き記した「地球の運動について」を参照するまでもなく、それが「文字」として「本」という媒体で継承される以前に、この作品では「口から発せられた言葉」が度々反復される。

 例えば、この「不正解は無意味を意味しない」という言葉は、最初の主人公ラファウによって繰り返される。「嘘は便利」で皆が言葉を重んじることに疑問を持っていたラファウが、獄中で対峙したノヴァクに対し堂々とその言葉を宣言し死んでいく様を見ると、地動説と出会ったことの「感動」(生きる意味、そして死ぬ意味)だけでなく、意識的か無意識的かわからず吐かれたその言葉(の継承)にさえ「感動」が込められている心地がする。なぜならこの「不正解は無意味を意味しない」という言葉は、のちにノヴァクを救う言葉になるからである。

 それは第23話の、炎に囲まれた教会で再び対峙するラファウとノヴァクのシーンである。ここで行われる2人の会話、その言葉たちは、それまで様々なキャラクターたちが互いの信と疑をぶつけ、話し合われてきた「議論」とは異なった、価値観の違う相手を認め「肯定」する「対話」である。敵対していた者同士であっても「過去や未来、長い時間を隔てた後の彼らから見れば、今いる僕らは所詮、皆おしなべて15世紀の人だ」と、ラファウは大きな歴史の流れから見れば皆それぞれ信じた道を精一杯生きた仲間だと肯定する。「僕らは気づいたらこの時代にいた。別の時代でもよかったのにこの時代だった」「それはただの偶然で無意味で適当なことで、つまり奇跡的で運命的なことだ」「僕は同じ思想に生まれるよりも、同じ時代に生まれることの方がよっぽど近いと思う」「だから、絶対そんなわけないと思いつつも、感情と理屈に拒絶されようとも、こう信じたい」「今、たまたまここに生きた全員は、たとえ殺し合うほど憎んでも、同じ時代を作った仲間な気がする」。

 このラファウの慰め、諭す言葉は、前述の「不正解は無意味を意味しない」に通ずる。ノヴァクの人生は無駄ではなかった、例えノヴァク自身が「この物語の悪役だった」としても。

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