是枝裕和監督が『阿修羅のごとく』を再映像化した意義 改めて感じる向田邦子脚本の凄さ

日本を代表する脚本家の一人、向田邦子。彼女の書いた数々の名作ドラマのなかで、ひときわ異彩を放ったホームドラマが、NHK放送の『阿修羅のごとく』(1979〜1980年)だった。3話のみの作品だったが、4話構成の「パート2」も制作されるほどに大きな反響を呼び、伝説的なドラマとして、当時の視聴者たちが語り継いできた名作だ。
「阿修羅」とは、向田邦子のシナリオのなかで、このように説明されている。
【阿修羅】 ASURA――インド民間信仰上の魔族。 諸天はつねに善をもって戯楽とするが、つねに悪をもって戯楽とす。天に似て天に非ざるゆえに非天の名がある。外には仁義礼智信を掲げるかに見えるが、内には猜疑心強く、日常争いを好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口を言いあう。怒りの生命の象徴。争いの絶えない世界とされる。
『阿修羅のごとく 向田邦子シナリオ集』より
何気ない家庭の日常の一コマにおいて女性たちが、まさに阿修羅を想起させるような激しい怒りの顔を見せる瞬間を切り取った、この挑戦的なドラマシリーズを、現在のキャストで、向田作品に最も影響を受けてきたと語る是枝裕和監督の演出で撮り直したのが、Netflixシリーズ『阿修羅のごとく』(全7話)である。
『阿修羅のごとく』は、向田邦子の最高傑作との呼び声も高い作品であるだけに、数度舞台化され、森田芳光監督による映画版が2003年に公開されるなど、何度も時代のなかで見直されてきた。視聴者の興味にフォーカスし、移り変わりの早い性質を持ちがちなドラマ脚本としては、異例の扱いだといえよう。
オリジナル版で、加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュンが演じた、主人公の四姉妹。Netflixの本シリーズ『阿修羅のごとく』でも基本的な設定は同じく、1979年の東京を舞台に、夫と死別して活け花を教えて生計を立てる長女・綱子を宮沢りえ、専業主婦の次女・巻子を尾野真千子、図書館司書をしながら一人暮らしをする三女・滝子を蒼井優、新人ボクサーと同棲する四女・咲子を広瀬すずが演じている。さらには、彼女たちの両親を松坂慶子と國村隼、姉妹たちの夫や恋人、もしくは不倫相手の男性役を内野聖陽、本木雅弘、松田龍平、藤原季節が務める。
四姉妹を描く物語といえば、名作文学『若草物語』を想起する人もいるかもしれないが、この物語の大部分は、そんな雰囲気とは程遠い。不倫や浮気など、家族になかなか言えない悩みや葛藤が描かれていくのである。父親(國村隼)が、もう一つの家庭を持ち、母親(松坂慶子)を長年の間裏切っていたことを姉妹が知ったことで、そんな物語は動き出していく。そしてそれを皮切りに、姉妹の間に葛藤が生まれたり、夫婦関係にも波乱が起き始めるのだ。
炊飯器にプリントされた花柄に代表されるように、昭和の小道具に囲まれた室内が、時代の空気を醸し出す。それだけでなく、四姉妹はじめ俳優たちの所作や話し方などが、昭和のそれをトレースしているのが面白い。これは、基となったドラマシリーズが存在するからこそできる芸当であるだろう。また、陰影が濃く見づらいまでに指向性の強い映像は、美術や俳優たちが生み出す世界を重厚な筆致で描き出していく。オリジナル版では、そのような極端な映像への試みは見られなかったが、現代に過去の世界を召喚しようとすれば、このような手続きが必要になるということだろう。
だが、本シリーズで真に感じなければならないのは、部分的に脚色されているとはいえ、やはり向田邦子の手腕に他ならないだろう。本シリーズが配信されることの第一の意義は、なぜ向田脚本が凄いと言われるのか、彼女のドラマをリアルタイムで観ていない世代でも、それを理解し体験する良い機会が巡ってきたことなのだ。
三女の滝子(蒼井優)が次女の巻子(尾野真千子)の家に、職場から電話をかける、第一話の冒頭のシーンを確認してほしい。ここでの向田のシナリオは、以下の通りとなっている。
赤電話をかけている滝子の声が曇ったガラス越しに聞えて来る。
滝子「お姉さん? あたし。滝子。うん。まあまあ元気。うん? うん? ちょっとね、話があるのよ」
滝子、曇ったガラス窓に、大きく、「父」と書く。その字をどんどん太くなぞってゆく。 白いブラウスに紺のセーター姿で電話をかけている滝子の姿が、「父」という字の中で、はっきりと見えてくる。
滝子「――そんなのんきな話じゃないわよ」
『阿修羅のごとく 向田邦子シナリオ集』より
滝子は、あるシリアスなことについて姉妹の間で相談したいと、会う約束を取り付けようとしている。巻子は何の相談なのかを知りたがるが、滝子は姉妹が集まったところで話したいと、言い淀んでいる。脚本は、曇りガラスに指を伸ばして、「父」という字をなぞる彼女の姿を見せることで、相談の内容が父親についての話しにくいものであること、そして滝子の性格や巻子との関係を理解させようとするのである。
この場面を凡百の脚本家が書けば、単に説明的なだけのものになってしまうおそれがある。地味な所作ではあるものの、この「父」の字を書くという指定があることで、「姉妹の間で、おいそれと言えないことがある」、「いったいそれは何なのか」というミステリーを、リアルな演技、シチュエーションとともに、“わざとらしくなく”向田は提示しているのだ。この細心さがあるが故に、向田脚本は豊かなのである。