『クワイエット・プレイス:DAY 1』徹底考察 サバイバルが暗示する“人類が背負う罪の歴史”
ポール・ボウルズの小説『極地の空』を映画化した『シェルタリング・スカイ』(1990年)のラストでは、このような言葉が紹介されている。「いつ死ぬかわからないからこそ、人は人生を水の尽きることのない泉のように考えてしまう。しかし全ての出来事は、本当にごくわずかな回数しか起こらない」と。そして、「満月が昇るのをあと何回眺めることができるだろうか。おそらく20回。それでも全てを無限のものと思ってしまうのだ」と結ばれている。
“思い出のピザ屋に行く”というサムの望みは、死の危険に瀕してまでやるべきことなのかと感じてしまうところもあるが、彼女がそのピザ屋に行って、そこに残されているかもしれないピザを手に入れる機会は、本当に今を逃してはあり得ないのである。多くの人は、行きたい場所があったとしても、忙しい日々のなかで何かと後回しにしてしまい、結局は行かないまま人生を終えてしまうことはよくあることだ。
脱出のため南岸に来るとされる船へと向かう群衆の流れに逆らって、サムは一人ハーレムへと向かって北上する。その象徴的な光景は、もはや彼女は人と違った行動をとることに躊躇がなく、真に自分のために人生の時間を使っていることが表現されている。時間が残されていないサムだからこそ、自分が何のために生きるのかを知り、真に目的を持った生き方ができるということだ。
そして、全身が痛みながらも進み続ける彼女の姿は、法律を学ぶためにニューヨークに来たものの、この事態によって人生設計が狂い、何をしたらいいか分からなくなってしまったという、本作の登場人物エリック(ジョセフ・クイン)の人生をも導いていくこととなる。
主人公サムと、セラピー猫のフロド……。サムとフロドといえば、『ロード・オブ・ザ・リング』(指輪物語)において、「滅びの山」に指輪を捨てに旅立つホビット族の名前である。命がけでピザ屋に辿り着こうとする本作の物語は、数々の苦難を乗り越えて滅びの山へと向かう旅に重ねられているところがあると考えられる。これは、自分たちの意志が試される危険な旅路そのものに哲学的で求道的な意味合いがあることを示唆しているのではないか。
全てが終わったときに流れる曲は、ジャズ、R&Bシンガー、ニーナ・シモンの「フィーリング・グッド」だ。原曲はミュージカルの舞台のために作曲されたもので、黒人の登場人物が白人にゲームで勝ったことで「気持ちがいい」と歌う場面で使用された。このように歴史的に虐げられてきた黒人が束の間の勝利を得るというモチーフを、人権に関心が深く社会活動に熱心だったニーナ・シモンがさらに自分の曲として歌ったことで、この曲は明るい内容ながら、同時に社会の暗部を意識させるものともなったのだ。
本作ではジャズクラブも登場する。ジャズの基になったのが黒人霊歌やワークソングから発展した「ブルース」であるように、長年にわたる人種差別などによって憂鬱さや悲しみを象徴した色“ブルー”が、そこから派生した音楽に影響を与えているのである。一見明るく思えるような曲でも、その裏には凄絶な歴史が存在し、精神性が受け継がれているのだ。
本作のストーリーにおいて、人類が強者の座を追われ、次々に虐殺されてしまう立場になったように、人類の歴史のなかでも、民族間の争いのなかで、恐ろしい犯罪がおこなわれてきた。それは、現在もイスラエルによるガザへの執拗な攻撃による無差別的な虐殺が続いているように、進行中の問題であるといえる。
本作が『クワイエット・プレイス』の設定を利用して描くのは、大都市での弱者のサバイバルだ。そしてそれが暗示しているのは、むしろ人類が背負っている罪の歴史なのである。本作『クワイエット・プレイス:DAY 1』がここで真に表現しているのは、そのなかにあっても必死に生きようとしてきた一人ひとりの物語であり、いまも厳しい状況にある人々への尊敬と応援なのだと考えられるのだ。
■公開情報
『クワイエット・プレイス:DAY 1』
全国公開中
監督・脚本:マイケル・サルノスキ
出演:ルピタ・ニョンゴ、ジョセフ・クイン、ジャイモン・フンスー
エグゼクティブプロデューサー:アリソン・シーガー、ヴィッキー・ディー・ロック
プロデューサー:マイケル・ベイ、アンドリュー・フォーム、p.g.a.、ブラッド・フラー、ジョン・クラシンスキー
キャラクター創造:ブライアン・ウッズ、スコット・ベック
ストーリー:ジョン・クラシンスキー、マイケル・サルノスキ
配給:東和ピクチャーズ
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