『クワイエット・プレイス:DAY 1』徹底考察 サバイバルが暗示する“人類が背負う罪の歴史”

『クワイエット・プレイス:DAY 1』徹底考察

 音を聞きつけられたら正体不明の怪物に襲撃されるという、極限状況を描くサバイバルスリラー映画、『クワイエット・プレイス』シリーズ。その絶望的な設定はそのままに、新たな舞台、新たな登場人物で描かれる前日譚作品『クワイエット・プレイス:DAY 1』が公開された。アメリカでは、とくに批評家の評価が高く、シリーズ最高傑作であるとの呼び声もある。

 ここでは、そんな本作『クワイエット・プレイス:DAY 1』がなぜ高く評価されるのか、作品の奥に隠されたものを読み込んでいくことで、その正体が何なのかを考えていきたい。

 これまでのシリーズでは、森や農場、海辺などの人が少ない静かな場所(クワイエット・プレイス)が舞台となっていた。だが本作では、常時けたたましい騒音が発生する、世界一の大都市ニューヨークでのサバイバルが展開する。しかも、人類が怪物たちの侵略と殺戮に遭い始める、衝撃的な「1日目(DAY 1)」からの出来事が全編で映し出されるのだ。

 第1作『クワイエット・プレイス』(2018年)が田舎を舞台にし、惨劇が始まってから日にちが経った状況を描いたのは、予算の事情によるところもあるだろう。人口密度が低い地域であれば、出演者を絞ることができ、撮影現場のコントロールもしやすくなるため、比較的小規模での撮影ができるからだ。だからこそ、第1作がスマッシュヒットを遂げたことで予算が数倍にアップした続編『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』(2021年)では見せ場として、町で起こる1日目の惨劇が部分的に描かれたのである。

 その第2作よりも、さらに予算が上がったとされる本作では、ニューヨークでの1日目からのサバイバルという、表現の難度が高い題材に挑戦したといえる。ただニューヨークでの撮影は一部だけで、主な撮影現場となったのはロンドンだったのだという。それでも、大都市ロンドンでニューヨークのチャイナタウン周辺を再現したりなど、あらゆる工夫でニューヨークの光景を作り出すのは大仕事だったはずだ。

 しかも劇中では、大通りや大きなビルの中、地下鉄など、ニューヨークらしい場所を巡るほか、外部への全ての橋が破壊されマンハッタン島に取り残された大勢の人々が次々に襲われるという、阿鼻叫喚の様が展開する場面も見られる。もし地獄というものが存在するのだとしたら、まさにこのような世界だとすら思える光景である。直接的な残酷描写は抑えめではあるものの、観客にそれを十分に想像させる映像表現と演出が駆使されているところが素晴らしい。

 ルピタ・ニョンゴが演じる本作の主人公サム(サミラ)は、ニューヨークに猫と暮らしている、詩人としてのキャリアを持っている人物。同時にホスピスに通う末期がん患者でもあり、全身の痛みや死の恐怖と日々闘っている。そんな彼女もまた、他のニューヨークにいる人々と同じく、怪物たちの襲来に見舞われるのである。

 いつ命が尽きてもおかしくない状況で、怪物たちから逃げ延びてハーレムのピザ店で食事をしようとする主人公の奮闘を描いた本作の物語は、人によっては奇異に映るかもしれない。たとえ生き延びても死の運命からは逃れられないからである。しかし、この設定はむしろ、命の重みや大切さを観客に意識させることに寄与しているのだと考えられる。

 劇中では、医師に宣告された余命の時期をすでに通り過ぎていることを題材にした、サムの詩が読み上げられる場面がある。あと何カ月残されているのか。何日か、何時間か、何秒か……。その詩には、いつやってくるかは分からないが、確実に迫りくる死までのカウントダウンへの恐怖と、しかしそれはまだ今この瞬間ではないという、ささやかな希望が表現されている。

 このサムの詩には、余命を宣告された彼女と余命を宣告されてない人々との間に、本質的な違いがあるのかという疑問を喚起するところがある。余命が彼女より多く残されていると考えられる人たちもまた、何年、何十年という単位の時間経過によって、結局は命が尽きるのである。そう考えれば、人間は生まれたときからすでに、ある意味で死を宣告されていることになる。

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