映画『デデデデ』の結末が示した“日常の強靭さ” 1人の命と世界を天秤にかける倫理とは

『デデデデ』親友と世界を天秤にかける倫理

「本当はこの世界はどのくらいヤバいのか」

 多分、かなりヤバいはずではあると思う。地球の人口は80億人を超えてまだ伸びており、温暖化はとどまる気配を見せず、絶え間なく戦争も起きていて、核を脅しに使う為政者を止める術もない。突然わけのわからないウイルスが世界中に拡散されたりもした。しかし、私たちはヤバいはずの現実世界をそれとなく生きている。というか、生きれてしまっている。

 『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下『デデデデ』)はそういう感覚をスクリーンに刻み付けた作品だった。登場人物たちは平和な日常をおくれていることを、心のどこかで不思議に思いながらも、その平和を享受している。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』

 この十数年、日本に暮らして多くの人が思い知ったことがある。大地震と大津波が突如やってきて、原発が爆発して、コロナで外出できなくなるなど、突然日常が壊れたかに見えて、それでも案外早く日常が戻ってくるという、奇妙なほどに日常が強靭であるということを。しかし、社会にも個人にも、確実に痛みと不安は蓄積されている。

 本作は、そういう痛みと不安が蓄積され続ける世界の日常を描いた作品と言える。そして、その痛みと不安がついに暴発すると何が起きるのかの浅野いにおによるシミュレーションでもある。痛みと不安が蓄積されていく時代に、何を頼りに生きるべきか、不確かなものだらけの世界で確かなものを見失わない生き方の一つの実践を示したように筆者には思える。

不安が蓄積され続ける平和な日常

 特になんの脈絡もなく、理不尽な悲劇は突然襲い掛かってくるものだということを私たちはこの10数年、多く体験している。そして、それによって起きる混乱は、ほどなくして収まることもたくさん経験してきた。それを象徴するように、『デデデデ』の物語は、母艦と呼ばれる宇宙船が突如、東京の上空に飛来したことから始まり、その状況で普通に高校生活をおくる女子校生たちの日常が中心に描かれていく。

 この異様な状況で普通に日常を謳歌する者もいれば(むしろこちらの方が普通じゃないかもしれない)、不安に駆られる者もいる日常が描かれる。そこには「不安」に対する感受性の違いが表れている。門出の母親は、母艦に落とした米軍の爆弾の影響で、東京都の大気はA線で汚染されていることを不安視している。おんたんと門出の同級生・小比類巻は、日々のニュースを読みながら不安に陥り、陰謀論をめぐらすようになっていく。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』

 主人公のおんたんと門出、その友人たちにとっては、そんな日々の不安よりも恋愛とゲームとスイーツの方が重要であり続ける。それはとても無責任で冷笑的な態度に見える一方で、卒業式という、少し非日常な瞬間にふと、いつもは言わない不安が刻まれたセリフが漏れ出す。

 「先生、本当の本当は、この世界はどれくらいやばいんですか」と門出は言う。何の当たり障りもなさそうに日々をおくっている人にも、こういう漠然とした不安が蓄積されているのだとわかるセリフだ。実際には彼女たちは何の不安もないわけではなく、日々の不安に耐えながら楽しさを演出しているのかもしれない。

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