『不適切にもほどがある!』の“本当に言いたいこと” 賛否両論の意見こそが物語とリンク
〈おじさんが おばさんが 昔話しちゃうのは 17歳に戻りたいから〉
〈おじさんが おばさんが 昔話しちゃうのは 17歳には戻れないから〉
物語が折り返しを過ぎた『不適切にもほどがある!』(TBS系)。第6話「昔話しちゃダメですか?」のミュージカルシーンで歌われた、一見真逆だと思われる事柄が背中合わせで共存する歌詞を聞き、どうやらこの「逆も真なり」が、本作の骨子なのではないかと思えてきた。
1986年(昭和61年)から、38年後の2024年(令和6年)の世界にタイムスリップしてきた昭和10年生まれ、50歳の体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)は、骨の髄まで昭和の価値観に染まった昭和のおじさんだ。2024年を生きる人々は、令和の常識から考えれば不適切極まりない市郎の言動にふれて驚愕し、あるいは憤りながら、ふと考える。「ダメダメ尽くし」の令和のコンプライアンスが禁じるところの、「ダメ」の実態とは一体何なのだろうか。なぜダメなのだろうか。
「2024年を生きる人々」には、ドラマの登場人物のみならず、当然テレビの前の私たちも含まれる。このドラマは、昭和の過去からやってきた小川市郎の視点という“装置”を通じて、「今の私たち」を照射している。そして、令和の価値観と昭和の価値観が互いを批評しあう構造になっている。
SNSなどで、このドラマに対する視聴者の評価は賛否両論に分かれた。宮藤官九郎による手練れの作劇で笑いの要素たっぷりに描かれるカルチャーギャップ活劇を大いに楽しむ声がある一方で、批判の声も多く上がった。「マイノリティに対する理解と認識が浅い」「令和のコンプラの是非を問うと見せかけて、結局『昭和はよかった』というオチになっている」「今日のようなコンプラができるまでの戦いの歴史を度外視して、からかって小馬鹿にするだけで終わっている」という主旨の感想・意見を多く見かけた。
作り手側にそんな意図はないはずだが、たしかに誤解されやすい、批判やツッコミが入るのも致し方ない作劇にはなっていると、筆者も思う。しかし残念なのは、市郎の言動があたかもこの作品全体のコンセプトを代弁しているかのような誤解をされていることだ。前述したように、市郎の視点はあくまでもこのドラマにおける“装置”であり、彼のリアクションは昭和から来たおじさん「小川市郎」というキャラクターが見て感じて反応したことで、この作品のイデオロギーでもなければ結論でもない。
昭和、令和、ともに一長一短で、良いところもあれば悪いところもある。さらにその良否も、光を当てる角度によって変わってくる。まさに冒頭で記した「逆も真なり」がくり返し描かれている。しかし昨今の実社会の風潮の一部として、昭和、そして昭和世代の人間が、今の世の中の矛盾や現代人の不遇を作り出した諸悪の根源であるかのように思われている節がある。本作はそうした風向きに対する宮藤官九郎からの「果たして昭和だけが悪なのか?」という問いかけではないだろうか。
誤解なきように付け加えておくが、このドラマは「果たして昭和だけが悪なのか?」と問うてはいるが、決して「昭和は良かった」「昭和万歳」というノスタルジーに拘泥しているわけではない。宮藤官九郎も、長年彼とタッグを組んで数々の傑作を生み出している制作統括の磯山晶も、主演の阿部サダヲも昭和世代。そしてかく言う筆者も昭和世代だ。昭和世代が昭和を思い出すとき、懐かしさと同時に胸に立ち上ってくるのは「痛み」だ。「イタさ」と言ってもいい。今に比べれば粗暴で雑で、ダサくて、それなのに妙にハシャいで、イキっていたあの頃。その「昭和」に対する悔恨と自嘲と苦笑いも、このドラマはきっちり描いている。
筆者が特に昭和の「痛み」を感じたのは、キヨシ(坂元愛登)のクラスメイト・佐高くんのエピソードだ。佐高くんは長らく「登校拒否」(現在の表現では「不登校」)の状態にあり、学校側もそのことに触れたくないようで、学級名簿から名前が抹消されている。「枠」にはまらないものは振り落とす。臭いものには蓋をする。昭和の悪しき行動様式だ。当時はフリースクールや学区外の学校への編入などの選択肢もなく、SNSで場所や属性に関係なく自由に友達を作れる環境もなかった。今に比べて選択肢のない、当時の佐高くんのような子どもたちの味わっていた閉塞感は想像を絶する。