“隠された”心を描くこと 『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』の魅力を紐解く
9月1日より全国公開された、映画『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』(2023年)。汐見夏衛によるシリーズ累計発行部数55万部を数える同名ベストセラー小説を、今作で劇映画初出演にして初主演を飾ったグローバルボーイズグループ、JO1の白岩瑠姫と、『おとななじみ』(2023年)など、映画・ドラマの話題作への主演が続く久間田琳加をW主演に迎え、『劇場版 美しい彼 ~eternal~』(2023年)などを手がける、いま最も注目を集める映画監督のひとりである酒井麻衣が実写化した本作。
公開後、各映画サイトでのレビューにて軒並み高スコアを獲得し、「年間ベスト級」「恋愛映画を超えた感動」「今まで出会った映画でいちばん綺麗で、いちばん泣いた」「青春映画の新たな傑作」など、幅広い世代から絶賛の声が相次ぎ、リピーターも続出中だ。
そんな話題沸騰中の『夜きみ』に、映画評論家の松崎健夫が特別寄稿。物語に散りばめられた様々なメタファーや本作の深い魅力について紐解いていく。
『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』は、表層的に“キラキラの恋愛青春映画”という印象を与える。もちろん、高校生が物語の中心にいるし、美形の高校生男女のエモーショナルな恋愛が描かれているからなのだが、この映画は同年代の若者だけでなく、彼らの親の世代にあたる観客層にもリーチしている。その理由のひとつは、W主演を務めた白岩瑠姫演じる青磁や久間田琳加演じる茜ら、高校生たちを描く比重からすれば重きを置かれてはいないものの、茜の母親・恵子(鶴田真由)や継父の隆(吉田ウーロン太)らの姿が丁寧に描かれているという点にある。
かつて、アニメーションやライトノベルの世界では、物語に“主人公の両親が登場しない”ことへ対する議論があった。例えば、主人公が何らかの事情で一人暮らしをするという設定を施すことで、両親の存在を物語に介在させない。さらには、同居しているはずの両親の姿が、全く描かれないという作品の例も少なくない。しかし、今作において両親の存在は、茜という人物を描く上で重要なのだ。それは、若い彼女の葛藤が家庭の事情にも起因しているからでもある。この映画では、そんな彼女の葛藤と向き合う大人の姿が描かれているのだ。大人の事情や大人の理解を描くことで、かつて若者の側だった観客にも共感を得ているということなのだろう。
もうひとつ、本作の表現がメタファーに富んでいるという点は、“キラキラの恋愛青春映画”とはあまり縁のない映画好きたちにもリーチしているという由縁になっている。例えば、<隠す>というメタファー。茜は学校でマスクを着けていることに対して「本心を隠している」と青磁に揶揄される場面があるが、同時に彼女は、継父に対して未だ「お父さん」と呼べない複雑な心境を笑顔で隠している。さらに、彼女の自室は隠し扉を開けた先にあり、クローゼットのようなところで過ごす様が描かれている。“クローゼット”という言葉は、その語源にClose(閉じる)、ひいては<隠す>というメタファーが包含されている。つまり、茜が隠しているのはマスクという記号によってのみではないことを窺わせるのだ。
現代社会はSNSの発達によって、個人が情報を発信することを容易くさせた一方で、匿名でないと言いたいことが言えず、誰もが本心を隠しているという状況にある。茜のマスク姿を揶揄する先述のくだりは、“紙”というアナログな手法を使って晒け出される点で、とても批評的だ。また茜のマスクが、コロナ禍とは無関係であるという設定も重要だ。それは、劇中で描かれる同調圧力に対して、コロナ禍を経験したわたしたちは勝手に推し量り、現代社会における地続きの状況と自然に結びつけてしまうからである。